夏目漱石『虞美人草』
「この辺の女はみんなきれいだな。感心だ。何だか画のようだ」と宗近君がいう。
「あれが大原女なんだろう」
「なに八瀬女だ」
「八瀬女というのは聞いた事がないぜ」
「なくっても八瀬の女に違いない。うそだと思うなら今度あったら聞いてみよう」
「だれもうそだといやしない。しかしあんな女を総称して大原女というんだろうじゃないか」
「きっとそうか、受け合うか」
「そうする方が詩的でいい。何となく雅でいい」
「じゃ当分雅号として用いてやるかな」
「雅号はいいよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、悌、だのってさまざまなやつがあるから」
「なるほど、蕎麦屋に藪が沢山できて、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」
「そうさ、お互いに学士を名乗ってるのも同じ事だ」
「詰まらない。そんな事に帰着するなら雅号はよせばよかった」
「愛嬌というのはね、――自分より強いものを斃す柔らかい武器だよ」
「それじゃ無愛想は自分より弱いものを、こき使う鋭利な武器だろう」
「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌がいるものか」
自分の世界が二つに割れて、割れた世界が各自に働き出すと苦しい矛盾が起こる。多くの小説はこの矛盾を得意に描く。小夜子の世界は新橋の停車場へ打つかった時、ひびが入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。
「ハハハハ甲野さん、竜宮は俗だというご意見だ。俗でも竜宮じゃないか」
「形容はうまくあたると俗になるのが通例だ」
「あたると俗なら、あたらなければ何になるんだ」
「詩になるでしょう」と藤尾が横合いから答えた。
「だから、詩は実際に外れる」と甲野さんがいう。
「実際より高いから」と藤尾が注釈する。
「するとうまくあった形容が俗で、うまくあたらなかった形容が詩なんだね。藤尾さんまずくってあたらない形容をいってごらん」
「いってみましょうか。――兄さんが知ってるでしょう。きいてごらんなさい」と藤尾は鋭い目の角から欽吾を見た。目の角はいう。――まずくってあたらない形容は哲学である。
小夜子はまた口ごもる。東京がいいかわるいかは、目の前に、西洋のにおいのする烟草をくゆらしている青年の心がけ一つできまる問題である。船頭が客人に、あなたは船が好きですかと聞いた時、好きもきらいもお前の舵の取りよう一つさと答えなければならない場合がある。責任のある船頭にこんな質問をかけられるほど腹の立つ事はないように、自分の好悪を支配する人間から、素知らぬ顔ですきかきらいかを尋ねられるのは恨めしい。
「僕が君より平気なのは、学問のためでも、勉強のためでも、何でもない。時々まじめになるからさ。なるからというより、なれるからといった方が適当だろう。まじめになれるほど、自信力の出る事はない。まじめになれるほど、腰が据わる事はない。まじめになれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が厳存しているという観念は、まじめになって始めて得られる自覚だ。まじめとはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたってまじめじゃない。頭の中を遺憾なく世の中へたたきつけて始めてまじめになった気持ちになる。安心する。実を言うと僕の妹も昨日まじめになった。甲野も昨日まじめになった。僕は昨日も、今日もまじめだ。君もこの際一度まじめになれ。人一人まじめになると当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる」
濃い紫のリボンに、怒りをあつめて、幌をくぐるときにさっとふるわしたクレオパトラは、突然と玄関に飛び上がった。
「二十五分」
と宗近君がいい切らぬうちに、怒りの権化は、辱められたる女王のごとく、書斎のまん中に突っ立った。六人の目はことごとく紫のリボンにあつまる。
逆に立てたのは二枚折りの銀屏である。一面にさえ返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青を使って、なよやかなる茎を乱るるばかりに描いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い瓣を掌ほどの大きさに描いた。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草である。落款は抱一である。