安部公房『飢餓同盟』『けものたちは故郷をめざす』『R62号の発明』

『飢餓同盟』

ある雪のふる夜だった。その日は朝から雪がふりつづいていた。最初にマサぶきの屋根の上で秋がおわった。次にワラ屋根の上の秋が追いはらわれ、最後にトタン屋根の上で死んだ。自転車にのっていたものが降りておしはじめると、短靴をはいていたものはゴム長にはきかえ、庭の畠に野菜をいけてあったものはあわててその目じるしの竿をたてた。馬にひかせた最初の除雪橇が子供たちにとりかこまれて大通りを通りすぎると、そのあとにはもう融けない冬がきた。

森は思った。まったく、現実ほど非現実なものはない。この町自体が、まさに一つの巨大な病棟だ。どうやら精神科の医者の出るまくなどではなさそうである。われわれに残されている仕事といえば、せいぜいのところ、現実的な非現実を、かくまい保護してやるくらいのことではあるまいか。森は人垣をはなれて、歩きだした。しかし、駅の方にではなく、いまやって来た道を、もう一度診療所の方へ……あたらしい勤め先がきまるまで、どのみちたっぷり暇なのだ。傷だらけになった、飢餓同盟に、せめて包帯のサービスくらいはしてやるがいい。森ははじめて、自分が飢餓同盟員であったことを、すなおに認めない気持ちになっていた。正気も、狂気も、いずれ魂の属性にしかすぎないのである。

『けものたちは故郷をめざす』

テーブルの用意ができた。五つのコップと五枚の皿、塩の壷とパン、それに切れ目をいれた玉ねぎとチーズと腸詰……しかし量は十分にあった。チーズは子供の頭ほどのが三つもあり、腸詰にしても脂肉から、肝臓のペーストまで、数種類あったし、ストーブには濃いスープが煮えたぎっている。そして事実、これからの数年間のあいだ、久三はこの食事のことをいつも絶望的な気持ちで思い出さなければならなかったのである。人間らしい、満ち足りた、最後の食事として……

ナイフも地図も立派な武器である。しかし蕃地の旅ででもないかぎり、現金がやはり一番の武器にちがいない。

火の粉が、服やまつげを焦がすのにもかまわず、外套の前をはだけて、焔を抱きこんだ。前が熱くなると、こんどはうしろが冷たくなる。うしろを暖めてから、また前をあぶる。ぐるぐる廻りながら、幾度もくりかえし、最後に靴をぬいで、足をあぶった。体の隅々がむず痒くなり、それが痛みにかわり、やがて全身がほぐれ、融け、充血した。うなりながら、体中をこすりまわした。

自分より弱いものができると、人間は強くなるものだ。逆に自分より強いものがいると、弱くなる。

久三は泣きだしてしまった。殺してやりたいほど、高が憎くなった。だが、殺さなくてもその男は死にかけている。すると今度は自分自身にたいしてむしょうに腹がたちはじめた。涙が凍り、痒くなってきたので、泣きやめる。もっとも、なんのために泣きだしたのか、もう忘れてしまっていたが。

物音に満ちた夜だった。その中には実在する音と、実在しないとがあった。実在するのは、風のはためきと、けだものの吠え声と、鳥の叫びである。けものたちは、うなされたような、そんな声を出しては自分が恐くなるのでないかと案じられるような声で、飽きずにいつまでも吠えつづけた。しかし、それらよりも敵意にあふれていたのは、実在しない声どもである。翼を持った無数の幻影のはばたきである。のがれようとする心がうみだした幻から、どうやってのがれることができるだろう。シャツのしたのナイフの柄をにぎりしめればしめるほど、それらの命は勢いをます。近づいてくる足音……久三を呼ぶ声……近づいてくる足音…・・・恐怖の叫び……近づいてくる足音……すすり泣き……近づいてくる足音……荷車のきしり……ながいあいだ、ためらってから、高のピストルをぬきとった。こういう場合には、当然の行為だったろう。かろうじて、彼を置き去りにしていった者たちへの憎しみと、たえがたいほどの睡気とが、耐える勇気を支えていてくれた。おそろしい夜だった。

飢えと食欲がべつのものなのなら、そして食欲がないのなら、むりに食べることもないと思ったが、飢えのほうが承知してくれなかった。食欲よりもずっと強迫的で、おそろしいやつである。
一度たべだすと、とめどがなかった。すこしでも口を動かしていないと、たまらなく不安なのである。飢えそのものよりも、飢えにたいする恐怖だったのかもしれない。

日暮れがちかい……どこに行けばいいのだろう?……完全に捨て去られてしまった……ちょうど、遅刻して教室に入れない中学生のような、心細い気持ちだった。しかも、家はどこにでもあった。家があればかならずドアがあり、ドアがあればかならずしっかりと錠がかかっている。ドアはすぐそこにあったが、その内部は無限に遠いのだ。けっきょく、あの人っ子ひとりいない荒野と、すこしも変わりはしないじゃないか……いや、もっと悪いかもしれない。荒野はのがれることをこばんだのだが、町は近づくことをはばむのだ……

『R62号の発明』

そのつむじ風が倉庫の顎をくすぐったので、油じみた扉を大口にあけて、キキキと笑った。それは人夫が三人がかりでおしつけなければ閉らない、笑い上戸の扉だった。

最後に指令箱の命令でR62号君自身の報告があった。単純な明るい表情で、ぼくの発明したこの機械は、Rクラブの綱領をそのまま具体化したものです。理論上からはぼくたちはどんな複雑な仕事をする自動機械でもできるわけですが、コストと能率の点を考慮すればそればかりが必ずしも目的にかなったことでない。むしろ一番コストの安い人間をどうル酔うするかということ、そこに問題があるのです。だからぼくは、人間にそのような能力を機械の方から強制し、しかもふんだんに人間をつかうような機械、というところに焦点をあて、このような人間合理化の機械を完成したのです……R62号君自身にしゃべらせたということは、たしかに思いつきだった。誠意のある拍手で迎えられ、賓客一同の顔も心から晴々として見えた。