オスカー・ワイルド『獄中記』

繁栄、快楽及び成功は、それらの本質は粗笨で中核は平俗なものでないとはいえぬ。しかし悲哀はあらゆる造化物の中でもっとも敏感なものである。心のあらゆる隅々におこるものの何一つとして、悲哀がそれに触れて激しく絶妙な鼓動に慄えぬようなものはない。

自分の経験したことを悔やむとは自分の進歩を停止することである。その経験を否定することは自分自身の生命の唇に偽りをいわせること、いいかえれば魂を否定することにほかならぬ。
何故であろうか。――肉體は卑俗なものも、僧職と幻影が浄めてくれたものと同様に吸収し、それらを速度と力とに、美しい筋肉の動きと麗しい肉の形態とに、頭髪の浪打ちと色とに、唇と眼とに変容する。そのように、魂もまたおのれの栄養力を持っていて、それ自体としては低劣で残虐で腐敗したものをすぐれた意味を持つ思想と情熱との高調にまで変容するのである。否、それだけではない。かかる低いものの中にこそその最も厳粛な宣命を行い、しばしば、冒涜と破壊との意図で為されたものの中にこそ最も完璧なる自己を顕示するのである。

悲哀は人間が抱き得る情緒中最高のものであり、同時にあらゆる大芸術の典型と試金石とであると、今私は知った。芸術家が常に追求しているものは、魂と肉体とがひとつの分かつべからざるものとなり、外面が内面を表現し、形式が内なるものを啓示するような存在のあらわれである。

キリストはもともと詩人の仲間に入るべきである。彼の人間観のすべては紛れも無く想像の力から湧き出たものであり、それによってのみ至り得るものである。汎神論者の「神」にあたるものは、彼にとっては人であった。さまざまな民族を一つのものとして認識した最初の人は彼である。多数の神と多数の人とがあったが、想像の神秘の力によって、すべては自らのうちに一つの血肉となっていると感じた彼は、その気持ちに従って、自らを時には神の子とよび時に人の子とよぶのであった。歴史の上のだれよりもつよく、彼こそ、ロマンスが訴えるところの驚異の感情をわれわれのうちに目覚めさす。