ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』

世には黄金を採掘するために働いている人々がいる。司教は憐憫を引き出すために働いていた。全世界の悲惨は彼の鉱区であった。いたる所に苦しみがあることは、常に親切を施すの機縁となるばかりであった。汝ら互いに愛せよ。彼はその言を完全なるものとして、それ以上を何も希わなかった。そこに彼の教理のすべてがあった。

年ごとに彼の魂は、徐々にしかし決定的に乾燥していった。心のかわく時には、目もかわく。徒刑場をいずるまで、十九年間、彼は実に一滴の涙をも流さなかった。

彼はその老人の天使のごとき行いや優しい言葉に反応して心を固くした。「あなたは正直な人間になることを私に約束なすった。私はあなたの魂を購うのです。私はあなたの魂を邪悪の精神から引き出して、それを善良なる神にささげます」そのことがたえず彼の心に返ってきた。これはその神のごとき仁恕に対抗せしむるに、吾人の心のうちにある悪の要塞たる傲慢をもってした。彼は漠然と感じていた、その牧師の容赦は自分に対する最も大なる襲撃であり最も恐るべき打撃であって、そのために自分はまだ揺り動かされていると。もしその寛容に抵抗することができるならば、自分のかたくなな心はついに動かすべからざるものであろう、もしそれに譲歩するならば、多くの年月の間個人の行為によって自分の心のうちに満たされ自ら喜ばしく思っていたあの憎悪の念を、捨てなければならないであろう。もうこんどは勝つか負けるかの外はない。そして戦いは、決定的な大戦は、自分自身の悪意とあの老人の仁慈との間になされているのだ。

徒刑場と呼ばるる醜い暗黒なものから出た彼の魂に、司教は苦痛を与えたのである。あたかもあまりに強い光が暗やみから出る彼の目をそこなうがように。未来の生涯、今後可能なものとして彼の前に提出された純潔な輝いた生涯は、彼をして全く戦慄せしめ不安ならしめた。彼はもはや何処に自分があるかを本当に知らなかった。にわかに太陽の出るのを見た梟のごとく、囚人たる彼は徳に眩惑され盲目となされてしまっていた。

「わが輩は生きるに賛成だ。地上には何物も終滅していない、何となればなお人はばかを言い得るからだ。僕はそれを不死なる神に感謝する。人は嘘をつく、しかし人は笑う。人は確言する、しかし人は疑う。三段論法から意外なことが飛び出す。それがおもしろいのだ。逆説のびっくり箱を愉快に開けたり閉めたりすることのできる人間が、なおこの下界にはいる」

このファンティーヌの物語はそもそも何を意味するか?それは社会が一人の女奴隷を買い入れたということである。
そしてだれから?悲惨からである。
飢渇と寒気と孤独と放棄と困苦からである。悲しき取り引き、一片のパンと一つの魂との交換、悲惨は売り物に出し、社会は買う。

人の心眼は人間のうちにおいて最も多く光輝と暗黒とを見出す。またこれ以上恐るべき、複雑な、神秘な、無限なものは、何も見ることができない。海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。

吾人は皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。

ナポレオンは戦闘を凝視することに慣れていた。彼は局部の悲痛なできごとを一々加算しはしなかった。個々の数字は、その総計たる勝利を与えさえするならば、さまで重大なことではなかった。その初端がいかに錯乱しようとも、彼はそれに驚きはしなかった。すべては自分の手中にあり、終局は自分のものであると、彼は信じていたのである。彼はすべてに超然たる自身を有していて、機を待つことを知っていた。そして天運を自己と同地位に置いていた。彼は運命に向かって言うかのようだった、「汝の勝手にもできないだろう」

人類の運命のうちにおけるこの一人の過度の重さは、平衡を乱していた。この個人はおのれ一個で、一団の天下の衆人よりもいっそうの重みを有していた。ただ一個の頭の中へ過剰に集中された人類の全活力、一人の頭脳へ集められた全世界、もしそれが持続したならば文化の破滅をきたしたであろう。いまや乱すべからざる最高の公明は、考慮をめぐらすべき時機に立ち至っていた。物質上の秩序におけると同じく精神上の秩序においても規定の重力関係があって、その関係の基礎となるべき原則および要素は、おそらく不満の声を発していたであろう。煙る血潮、みちあふれた墳墓、涙にくれてる母親、それらは恐るべき論告者である。地にしてあまりに重き荷に苦しむ時には、神秘なる呻吟の声が影のうちより発し、無限の深みにまでも達する。
ナポレオンは既に無窮なるもののうちにおいて告発され、その墜落は決定されていた。
彼は神のわずらいとなっていた。
ワーテルローは一個の戦闘ではない。それは世界の方向転換である。

【二つの不幸集まって幸福を作る】

ジャン・ヴァルジャンは身を震わした。不運な者らが絶えずやるような身震いであった。すべてに敵意がありすべてが疑わしいように彼らは思うものである。人の目につきやすいからといっては昼間をきらい、不意に襲われやすいからといっては夜ろきらうのである。ジャン・ヴァルジャンは、先刻は庭に人影のないのを見ておののき、今は庭にだれかいるのを見ておののいた。

第一の盃には猿の葡萄酒という銘が刻んであり、第二のには獅子の葡萄酒、第三のには羊の葡萄酒、第四のには豚の葡萄酒という銘が刻んであった。その四つの銘は酩酊の四段階を示したものであった。第一段の酩酊は人を愉快になし、第二段は人を怒りっぽくなし、第三段は人を遅鈍になし、第四段は人を愚昧にする。

虚無主義に対しては議論は不可能である。なぜなれば、合理的な虚無主義者は、相手の者が存在しているかを疑い、また自分自身が存在していることをも確信してはいないからである。
彼の見地よりすれば、彼自身も彼自身に対しては「自分の精神の一概念」にすぎない、ということになり得る。
ただ彼は一事を気づかないでいる、精神という言葉を発することによって、否定したすべてのものを一括して自ら肯定しているということを。
要するに、否という一語にすべてを到達ぜしむる哲学によっては、何らの思索の道も開かれない。
「否」という一語に対しては、ただ「しかり」という一つの答えがあるのみである。
虚無主義は領域を有しない。
虚無なるものは存しない。零は存しない。すべては何かである。無は何物でもない。
人はパンによってよりもなお多くの肯定によって生きている。

人類はただ一つである。人はすべて同じ土でできている。少なくともこの世にあっては、天より定めれられた運命のうちには何らの相違もない。過去には同じやみ、現世には同じ肉、未来には同じ塵。しかしながら、人を作る捏粉に無知が交じればそれを黒くする。その不治の黒色は、人の内心にしみ込み、そこにおいて悪となる。

およそ世に仕事を放擲するくらい危険なことはない。それは一つの習慣がなくなることである。しかも捨てるにたやすく始めるに困難な習慣である。
ある程度までの夢想は、一定の分量の麻酔剤のごとく有効なものである。それは、労苦せる知力の時としては荒い熱をもしずめる、そして精神のうちにさわやかな柔らかい潤いを生じさして、醇乎たる思索の、あまりに峻厳な輪郭をなめらかにし、処々の欠陥や間隙をうずめ、全体をよく結びつけ、観念の角をぼかしてくれる。しかしあまりに多くの夢想は人を沈めおぼらす。思索からまったく夢想のうちに陥ってゆく精神的労働者は災いなるかなである。彼らは再び上に浮かび出すことは容易であると信じ、要するに同じであると考える。しかしそれは誤りである。
思索は知力の労苦であり、夢想は知力の逸楽である。思索を追ってその後に夢想を据えるのは、食物に毒を混ずるに等しい。

コゼットは自分の美しいことを知って、それを知らない時のような優美さを失った。自分の美を知らない優美さはまた特別なものである。なぜなら、無邪気のために光を添えらるる美は言葉にも尽くし難いものであり、自ら知らずして天国の鍵を手にしながら歩を運ぶまばゆきばかりの無心ほど、世に景慕すべきものはない。しかし彼女は、素朴な優美さにおいて失ったところのものを、思いありげな本気な魅力において取り返した。彼女の一身は、青春と無垢と美との喜びに浸されながら、輝かしい憂愁の様を現していた。

世間から離れていたコゼットは、やはり世間から離れていたマリユスと同じく、今はただ点火されるのを待つばかりになっていた。運命はそのひそかな一徹な忍耐をもって、両者を徐々に近づけていた。しかもこのふたりは、情熱のわき立つ電気をになって思い焦がれていた。この二つの魂は、雷を載せた二つの雲のように恋を乗せ、電光の一閃に雲がとけ合うように、ただ一瞥のうちに互いに混和すべきものであった。
やだの一瞥ということは、恋の物語においてあまりに濫用されたため、ついに人に信ぜられなくなった。互いに視線を交えたために恋に陥ったということを、今日ではほとんど口にする者もない。しかし人が恋に陥るのは、皆それによってであり、またそれによってのみである。その他はやはりその他に過ぎなくて、あとより来るものである。一瞥の火花を交わしながら二つの魂が互いに与え合うその大衝動こそ、最も現実のものである。

それでも彼女はひそかに思わざるを得なかった、彼が美しい髪と美しい目と美しい歯とを持ってること、その友人らと話すのを聞けば彼の声にはいかにも美しい響きがあること、その歩き方はまあ言わば不器用ではあるがまた独特の優美さを持ってること、どこから見ても愚物ではなさそうであること、その人品は気高くやさしく素朴で昂然としていること、貧乏な様子ではあるがりっぱな性質らしいことなど。

自分がきれいであることを知っていたので彼女は、漠然とではあったが自分に武器があることをよく感じていた。子供がナイフをもてあそぶように女は自分の美をもてあそぶ。そしてついには自ら傷つくものである。

そして妙なことではあるが、真の恋の最初の兆候は、青年にあっては臆病さであり、若い女にあっては大胆さである。考えると不思議ではあるが、しかし実は当然すぎることである。すなわち両性が互いに接近せんとして互いに性質を取り替えるからである。

内乱?それはいったい何の意味であるか。外乱というものが存在するか。すべて人間間のあらゆる戦争は、皆同胞間の戦いではないか。戦いはただその目的によってのみ区別さるべきである。世には外乱もなく内乱もない。ただ不正の戦いと正義の戦いとがあるのみである。人類全体の大協約が締結さるる日までは、戦争は、少なくともおくれたる過去に対抗する進んだる未来の努力たる戦争は、おそらく必要であろう。この戦いに何の難ずべき点があるか。戦いが恥ずべきものとなり、剣が匕首となるのは、ただ、権利と進歩と道理と文明と真理とを刺す時においてのみである。その時こそ、内乱もしくは外乱は不正なものとなり、罪悪と呼ばるべきものとなる。

ジャン・ヴァルジャンはコゼットの悲しみに気づかないほど不安であり、コゼットはジャン・ヴァルジャンの不安に気づかないほど悲しんでいた。

「アンジョーラは豪い奴だ」とボシュエは言った。「あのびくともしない豪勇さはまったく僕を驚嘆させる。彼はひとり者だから、多少悲観することがあるかも知れん。豪いから女ができないんだといつもこぼしてる。ところがわれわれは皆多少なりと情婦を持っている。だからばかになる、言い換えれば勇敢になる。虎のように女に夢中になれば、少なくとも獅子のように戦えるんだ。それは女から翻弄された一種の復讐だ。ローランはアンゼリックへの面当に戦死をした。われわれの勇武は皆女から来る。女を持たない男は、撃鉄のないピストルと同じだ。男を勢いよく発射させる者は女だ。ところがアンジョーラは女を持っていない。恋を知らないで、それでいて勇猛だ。氷のように冷たくて火のように勇敢な男というのは、まったく前代未聞だ」

数歩進んだジャヴェルは振り向いて、ジャン・ヴァルジャンに叫んだ。
「君は俺の心を苦しめる。むしろ殺してくれ」
ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンに向かってもうきさまと言っていないのを自ら知らなかった。

彼の最大の苦悶は、確実なものがなくなったことであった。彼は自分が根こそぎにされたのを感じた。法典ももはや彼の手の中では丸太にすぎなかった。彼はわけのわからぬ一種の懸念と争わなければならなかった。その時まで彼の唯一の規矩だった合法的肯定とはまったく異なった一つの感情的啓示が、彼のうちに起こってきた。旧の公明正大さのうちの止まるだけでは、もう足りなくなった。意外な一連の事実が突発して、彼を屈服さした。一つの新世界が彼の魂に現れた。すなわち、甘受してまた返してやった親切、献身、慈悲、寛容、憐憫から発した峻厳の毀損、個人性の承認、絶対的裁断の消滅、永劫定罪の消滅、法律の目における涙の可能、人間に依存する正義とは反対の方向を取る一種の神に依存する正義。彼は暗黒のうちに、いまだ知らなかった道徳の太陽が恐ろしく上りゆくのを見た。それは彼をおびえさし、彼を眩惑さした。鷲の目を持つことを強いられた梟であった。

「お前たちは二度の説教をのがれることはできない」と彼は声を張り上げた。「麻に司祭の説教があり、晩に祖父の説教があるのだ。まあわしの言うことを聞くがいい。わしはお前たちに一つの戒めを与える、それは互いに熱愛せよということだ。わしはくどくど泣き言を並べないで、すぐに結論に飛んでゆく、すなわち幸福なれというのだ。万物のうちで賢いのはただ鳩だけである。ところが哲学者らは言う、汝の喜びを節せよと。しかるにわしは言う、汝の喜びを奔放ならしめよと。むちゃくちゃにのぼせ上がるがいい、有頂天になるがいい。哲学者どもの言うことは阿呆の至りだ。彼らの哲学なんかはその喉の中につき戻すがいいのだ。かおりが多すぎ、開いた薔薇の花が多すぎ、歌ってる鶯が多すぎ、緑の木の葉が多すぎ、人生に曙が多すぎる、などということがあり得ようか。互いに愛しすぎるということがあり得ようか。互いに気に入りすぎるということがあり得ようか。気をつけるがいい、エステル、お前はあまりにきれいすぎる、気をつけるがいい、ネモラン、お前はあまいに麗しすぎる、などというのは何というばかげたことだ。互いに惑わしよろこばし夢中にならせすぎるということがあり得るものか。あまり幸福すぎるということがあり得るものか。汝の喜びを節せよだと、ばかな。哲学者どもを打ち倒すべしだ。千恵はすなわち歓喜なりだ、歓喜せよ、歓喜すべし。いったいわれわれは、善良だから幸福なのか、幸福だから善良なのか?サンシー金剛石は、アルレー・ド・サンシーの所有だったからサンシーといわれるのか、またはサン・シー(百六)カラットの重さがあるからサンシーと言われるのか?そういうことはわしにはわからない。人生はそんな問題で満ちている。ただ大切なのは、サンシー金剛石を所有することだ、幸福を所有することだ。おとなしく幸福にしているがいい。太陽に盲従するがいい。太陽とは何であろうか?それは愛だ。愛といわば婦人だ。ああそこにこそ全能の力はあるんだ。この過激派のマリユスに聞いてみるがいい、彼がこのコゼットという小さな暴君の奴隷でないかどうかを。しかも甘んじてそうなってるではないか。実に婦人なるかなだ」

「恋愛は六千歳の子供だ。恋愛は長い白髯をつけてもいい者なんだ。メトセラもキューピッドに比ぶれば鼻たらし小僧にすぎない。六十世紀も前から男女は互いに愛しながら困難をきりぬけてきた。狡猾な悪魔は人間をきらい始めたが、いっそう狡猾な人間は女を愛し始めた。そうして、悪魔から受ける災いよりもいっそう多くのいいことをした。この妙策は、地上の楽園の初めから見いだされていたのである。この発明は古くからのものだが、いつまでも新しいものである。それを利用しなければいけない」

ここでわれわれは筆を止めよう。結婚の夜の入り口には、ひとりの天使が立っていて、ほほえみながら口に指をあてている。

「私はただ一つの赦免をしか必要としません、すなわち自分の良心の赦免です」

「死ぬのは何でもないことだ。生きられないのは恐ろしいことだ」