夏目漱石『三四郎』

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で一寸切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った。

「君、不二山を翻訳して見た事がありますか」と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは……」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」

二方は生垣で仕切ってある。四角な庭は十坪に足りない。三四郎はこの狭い囲の中に立った池の女を見るや否や、忽ち悟った。――花は必ず剪って、瓶裏に眺むべきものである。

「迷える子(ストレイシープ)ー―解って?」
三四郎はこう云う場合になると挨拶に困る男である。咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。と云って、この後悔を予期して、無理に応急の返事を、さも自然らしく得意に吐き散らす程に軽薄ではなかった。だから只黙っている。そうして黙っていることが如何にも半間であると自覚している。
迷える子という言葉は解った様でもある。又解らないようでもある。解る解らないはこの言葉よりも、寧ろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔を眺めて黙っていた。すると女は急に真面目になった。
「私そんなに生意気に見えますか」
その調子には弁解の心持がある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れれば好いと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出てきた。はれたのが恨めしい気がする。

「我々が露悪家なのは、可いですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと?僕はそうでない、大変親切にされて不愉快なことがある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切に適っている、然し親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日に御目出度と云われて、実際御目出度い気がしますか」
「そりゃ……」
「しないだろう。それと同じく腹を抱えて笑うだの、転げかえって笑うだのと云う奴に、一人だって実際笑ってる奴はない。親切もその通り。御役目に親切をしてくれるのがある。僕が学校で教師をしている様なものでね。実際の目的は衣食にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だろう。これに反して与次郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末に了えぬいたずらものだが、悪気がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、万事正直に出られない様な我々時代の小むずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」

三四郎は本来からこんな男である。用談があって人と会見の約束などをする時には、せぽうがどう出るだろうという事ばかり想像する。自分が、こんな顔をして、こんな事を、こんな声で云って遣ろうなどとは決して考えない。しかも会見が済むと後からきっとその方を考える。そうして後悔する。

「――中学教師などの生活状態を聞いて見ると、みな気の毒なものばかりの様だが、真に気の毒と思うのは当人だけである。なぜというと、現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄てる習慣である。切棄てなければならない程世間が切迫しているのだから仕方がない。その証拠には新聞を見ると分かる。新聞の社会記事は十の九まで悲劇である。けれども我々はこの悲劇を悲劇として味わう余裕がない。ただ事実の報道として読むだけである」

「その時僕が女に、あなたは画だと云うと、女が僕に、あなたは詩だと云った」

「それからその女にはまるで逢わないんですか」
「まるで逢わない」
「じゃ、何処の誰だか全く分からないんですか」
「無論分からない」
「尋ねて見なかったですか」
「いいや」
「先生はそれで……」
「それで?」
「それで結婚をなさらないんですか」
先生は笑い出した。
「それ程浪漫的(ロマンチック)な人間じゃない。僕は君よりも遙に散文的に出来ている」

「僕は戸外が好い。暑くも寒くもない、奇麗な空の下で、美しい空気を呼吸して、美しい芝居が見たい。透明な空気の様な、純粋で単簡な芝居が出来そうなものだ」