夢野久作『ドグラ・マグラ』

人間の脳髄と称する怪物は、身体の中でも一番高いところに鎮座して、人間全身の各器官を奴僕のごとく追い使いつつ、最上等の血液と、最高等の栄養分をフンダンに搾取している。脳髄の命ずるところ行われざるなく、脳髄の欲するところ求められざるなし。何のことはない、脳髄のために人間が存在しているのか、人間のために脳髄が設けられているのか、イクラ考えても見当が付かないという……それほどさように徹底した専制ぶりを発揮している人体各器官の御本尊、人類文化の独裁君主がこの脳髄様にほかならないのだ。

ところが、それはそれとしてここに一つ不思議なことがあるのだ。
それは他事でもない。その脳髄と自称する蛋白質の固形物自身が、古往今来、人体の中でドンナ役割をつとめているのか、何の役に立っているものか……という事実を、厳正なる科学的の研究にかけて調べてみると、トドのつまり「わからない」という一転に帰着することだ。逆に言うと、この脳髄と名付くる怪物は、古今東西の学者たちの脳髄自身に、脳髄ソレ自身のホントウの機能をミジンも感付かせていないことだ。……のみならず……その脳髄自身は、ソレ自身がトテモ一キロ二キロの物質の一塊とは思えないほどの超科学的な怪能力、神秘力、魔力を上下八方に放射して、そうした科学者たちの脳髄ソノモノに対する科学的の推理研究を、片端からメチャメチャに引掻きまわしている。モット手短かに言うと、「脳髄が、脳髄ソレ自身の機能を、脳髄ソレ自身にわからせないようにわからせないように努力している」とでも形容しようか。したがってその脳髄は、脳髄ソレ自身によって作り出された現代の人類文化の中心を、しだいしだいにノンセンス化させ、何喰わぬ顔をして頭蓋骨の空洞の中にトグロを巻いているという、悪魔ソレ自身が脳髄ソレ自身になって来るという一事だ。

ポカンは宣言する。
……「物を考える脳髄」はにんげんの最大の敵である。……宇宙間、最大最高級の悪魔中の悪魔である。……天地開闢の初め、イーブに知恵の実を喰わせたサタンがの蛇が、更に、そのアダム、イーブの子孫を呪うべく、人間の頭蓋骨の空洞に忍び込んで、トグロを巻いて潜み隠れた……それが「物を考える脳髄」の前身である……と。
……眼を開け……。
……この戦慄すべき脳髄の悪魔振りを正視せよ。
……そうして脳髄に関する一切の迷信、妄信を清算せよ。
人間の脳髄は自ら誇称している。
「脳髄は物を考えるところである」
「脳髄は化学文明の造物主である」
「脳髄は現実世界における全知全能の神である」
……と。
脳髄はこうして宇宙間最大最高級の権威を僭称しつつ、人体の最高所に鎮座して、全身の各器官を奴僕のごとく駆使している。最上等の血液と、最高等の栄養物を全身から搾取しつつ王者の傲りを極めている。そうして脳髄自身の権威を、どこまでもどこまでも高めて行く一方に、その脳随の権威を迷信している人類を、日に日に、一歩一歩と堕落の淵に沈淪させている。
その「脳髄の罪悪史」のモノスゴサを見よ。

吾輩……アンポンタン・ポカンは、アラユル方向から世界歴史を研究した結果、左のごとき断定を下すことを得た。
曰く……脳髄の罪悪史は左の五項に尽きている……と。
「人間を神様以上のものと自惚れさせた」
これが脳髄の罪悪史の第一ページであった。
「人間を大自然に反抗させた」
これが、その第二ページであった。
「人類を禽獣の世界に逐い返した」
というのがその第三ページであった。
「人類を物質と本能ばかりの虚無世界に狂い廻らせた」
というのがその第四ページであった。
「人類を自滅の斜面へ逐い落した」
それでおしまいであった。

かくして物の美事に人間世界から神様を抹消した「物を考える脳髄」は、引続いて人間を大自然界に反逆させた。そうして人間のための唯物文化を創造し始めた。
脳髄はます人間のためにアラユル武器を考え出して殺し合いを容易にしてやった。
あらゆる医術を開拓して自然の健康法に反逆させ、病人を殖やし、産児制限を自由自在にしてやった。
あらゆる器械を走らせて世界を狭くしてやった。
あらゆる光を工夫し出して、太陽と、月と、星を駆逐してやった。
そうして自然の児である人間を片っ端から、鉄と石の理詰めの家に潜り込ませた。ガスと電気の中に呼吸させて動脈を硬化させた。鉛と土で化粧させて器械人形と遊戯させた。
そうしてアルコールと、ニコチンと、阿片と、消化剤と、強心剤と、催眠薬と、媚薬と、貞操消毒剤と、毒薬の使い方を教えて、そんなもののゴチャゴチャしが生み出す不自然の倒錯美をホントウの人類文化と思い込ませた。……不自然なしには一日も生存できないように、人類を習慣づけてしまった。

……そればかりではない……。
人間世界から「神様」をタタキ出し、次いで「自然」を駆逐し去った「物を考える脳髄」は、同時に人類の増殖と、進化向上と、慰安幸福とを約束する一切の自然な心理のあらわれを、人間世界から奪い去った。すなわち父母の愛、同胞の愛、恋愛、貞操、信義、羞恥、義理、人情、誠意、良心なぞの一切合財を「唯物科学的に見て不合理である。だから不自然である」という錯覚の下に否定させて、物質と野獣的本能ばかりの個人主義の世界を現出させた。そうして人類文化を日に日に無中心化させ自涜化させ、神経衰弱化させ、精神異常化させて、ついに全人類を精神的に自滅、自殺化させた虚構世界の十字街頭に、赤い灯、青い灯を慕うノンセンスの幽霊ばかりを彷迷わせるようになってしまった。
「物を考える脳髄」は、かくして知らず識らずのうちに、人類を滅亡させようとしているのだ。

胎児の夢
――人間の胎児によって、他の動植物の胚胎の全部を代表させる。
――宗教、科学、芸術、その他、無限の広汎にわたるべき考証、引例、および文献に関する註記、説明は、省略、もしくは極めて大要に止める。
人間の胎児は、母の胎内にいる十ヶ月の間に一つの夢を見ている。
その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、ないし、数百億年にわたるであろう恐るべき長尺の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から始まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、しだいしだいに人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像もおよばぬ長い長い年月にわたる間に、悩まされて来た驚心、駭目すべき天変地妖、または自然淘汰、生存競争から受けて来た息も吐かれぬ災難、迫害、辛苦、艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現して来るところの、一つの素晴らしい、想像を超越した怪奇映画である。

胎児の先祖代々に当る人間たちは、お互い同士の生存競争や、原人以来遺伝して来た残忍卑怯な獣畜心理、そのほかいろいろ勝手な私利私欲を遂げたいために、直接、間接に他人を苦しめる大小様々の罪業を無量無辺に重ねて来ている。そんな血みどろの息苦しい記憶が一つ一つ胎児の現在の主観となって眼の前に再現されて来るのである。

……異性の美しさを感ずる心と、恋と、愛と、情欲とはみんな別物です。そんなのをゴッチャにした恋は錯覚の恋です……異性に対する冒涜です……

「……すなわち宇宙間一切のガラクタは皆、めいめい勝手な心理遺伝と戦いつつ、植物・動物・人間と進化して来たもので、コイツに囚われている奴ほど自由の利かない下等な存在ということになる。だから思い切って今のうちにキレイサッパリと心理遺伝から超越しちまえ。ホントウに解放された青天井の人間になれ……という宣言を、新生のまま民衆にタタキつけたのがキリストで、オブラートに包んで投り出したのが孔子で、おいしいお菓子に仕込んで、デコデコと飾り立てて、虫下しみたように鐘や太鼓で囃し立てて売り出したのがお釈迦様ということになるんだ。そこで、そんな連中の専売特許のウマイところだけを失敬して『心理遺伝』なぞいう当世向きの名前で大々的に売り出して百パーセントの剰余価値を貪ろうと企てているのが、ここにいる吾輩ということになるがね……ハッハッハッ……」

「仮にある人間が、一つの罪を犯したとすると、その罪は、いかに完全に他人の眼から回避し得たものとしても、自分自身の『記憶の鏡』野中に残っている、罪人としての浅ましい自分の姿は、永久に拭い消すことができないものである。これは人間に記憶力というものがある以上、やむをえないので、誰でも軽蔑するくらいよく知っている事実ではあるが……サテ実際の例に照らして見ると、なかなか軽蔑なぞしておられない。この記憶の鏡に映ずる自分の罪の姿なるものは、常に、五分も隙のない名探偵の威嚇力と、絶対に逃れ途のない共犯者の脅迫力とを同時にあらわしつつ、あらゆる犯罪に共通した唯一、絶対の弱点となって、最後の息を引き取る間際まで、人知れず犯人に付き纏って来るものなのだ。……しかもこの名探偵と共犯者の追求から救われ得る道はただ二つ『自殺』と『発狂』以外にないと言ってrもいいくらい、その恐ろしさが徹底している。世俗にいわゆる『良心の呵責』なるものは、畢竟するところこうした自分の記憶から受ける脅迫観念から救われるためには、自己の記憶力を殺してしまうよりほかに方法はない……ということになるのだ」