トマス・ハリス『羊たちの沈黙』

「きみがあのような目に遭ったのは、私としてはきわめて不本意だ。礼を欠くということは、私にとっては言葉に絶するほど醜悪なことだ」
まるで、人を殺すことによって、もっと度の軽い野蛮さが洗い浄められたような言い方だった。

椅子に戻っても、自分が何を読んでいたのか思い出せない。横に置いてある何冊かの本に触れて温かいのを見つける。

「きみは憶測した。〈憶測〉したのだな、スターリング。いいか」クローフォドが黄色い罫紙綴りに〈憶測〉と書いた。スターリングの教官たちの何人かはクローフォドのそのやり方を真似て使っているが、スターリングはすでに見たことは黙っていた。クローフォドは文字の横に線を引き始めた。「私が何か任務を与えた時に、かりにきみが憶測したら、二人とも人の笑い者になる可能性がある。〈憶〉は気おくれだ、尻込みしながら〈はかる〉ことになるんだ」気分よさそうに椅子に寄りかかった。

「私はきみが鑑識で第一級の仕事をしてくれるのを期待しているが、それ以上のものが必要なのだ。きみは口数が少ないし、それは結構だ、俺も同じだ。しかし、何かを提案する前に、私に告げる何か新しい事実をつかまなければならない、というような考えは絶対に抱かないことだ。ばかげた質問、というものはない。きみは私が気付かない点に気付くはずだし、それが何であるか、私は知りたい。事によると、きみはこういう事に特殊な才能を持っているかもしれない。持っているかどうかを見る機会がとつぜん生じたのだ」

クローフォドが三人と握手を交わし、全国犯罪情報センターのホットラインの電話番号入りの名刺を渡した。彼があっという間に男性同士の結び付きを確立するのを見て、スターリングは興味を覚えた。何か判ったら直ちに連絡する、任せておいてくれ。それは有難い、恩に着るよ。事によると、たんに男性同士の結び付きだけではにかもしれない、と彼女は考えた。彼女にもその連帯感が伝わって来た。

彼女はクローフォドが歩いて行くのを見ていた。飛行機で衣服がしわだらけになり、川岸を調べて袖口に泥のついた中年の男が、両腕一杯にケースを二つ抱えて、いつも家でやっていることをやるために、これから家に帰るのだ。
その瞬間、彼のためなら平気で人が殺せる、とスターリングは思った。それがクローフォドの卓越した能力の一つなのだ。

「たいがいの人間はチョウを愛し、ガを嫌悪する」ピルチャーが言った。「しかし、ガの方がもっと――興味深い、人を楽しませる」
「ガは有害だわ」
「有害なのもいる、たくさんいる、しかし、ガは多種多様な生き方をしているんだ。ちょうど俺たちのように」次の階まで沈黙が続いた。「ガの一種は、実際には一種以上いるが、涙だけで生きているのがいる」ピルチャーが口を開いた。「それしか飲み食いしないんだ」
「どんな涙?誰の涙?」
「俺たちくらいの大きさの、陸棲の大きな哺乳動物の涙だ。昔のガの定義は、〈あらゆる物をゆっくりと、静かに、食べ、消耗し、あるいは破壊するもの全て〉だった。ガは、破壊を意味する動詞でもあったのだ……」

「チーズバーガーでビールを飲んだり、楽しいハウス・ワインを飲みに出かけるような事はしないのか?」
「最近はないわ」
「今、俺と一緒に行かないか?遠くないよ」
「行かないけど、これが終わったら私がおごるわ――当然、ミスタ・ロゥドンも一緒に来ていいわ」
「その点は何も当然じゃないよ」ピルチャーが言った。そして、出口で、「きみのこの件が早く片付くのを願ってるよ、スターリング捜査官」

「二人の男に会った、とするわ。いつも、好きでない方が電話をかけて来るのよ」
「そんな事、前から判ってるわ」

「彼は願望する。事実、彼はきみが体現しているものを願望する。願望することが彼の性格なのだ。我々はどのようにして願望し始めるのだ、クラリス?我々は願望の対象となるものを捜し求めるのか?よく考えて答えてもらいたい」
「そうではありません。私たちは、ただ……」
「捜し求めない。まさにその通りだ。我々は手始めに毎日見ているものを願望する。きみは、毎日、自分をじろじろと見回す視線を感じないか、クラリス、偶然の出会いにおいて?感じないでいられるとはとても思えない。それに、きみの目はものを見回さないのか?」

〈彼は明確に見抜く――彼が私を見抜いているのは確かだ〉。自分に好意を抱くことなく自分を理解できる人間がいるというのは、容易には認め難い。スターリングの年頃では、そのような経験をしたことはほとんどなかった。

彼の頬が光っているのを車から見たジェフは、クローフォドから見えないようわき道にバックで入った。ジェフは車から降りた。煙草に火をつけてせかせかと吹かした。クローフォドへの贈物として、クローフォドの涙が乾き、腹を立て、自分をどなりとばす理由ができるまでぶらぶらしているつもりだった。

スターリングは首を後ろに倒して、しばし目を閉じていた。問題解決というのは狩猟だ、凶暴な喜びを感じる、それは人間がもって生まれたものなのだ。

「かなり滑稽な感じね。私、滑稽であることが、男としていちばん大事な点だ、と結論したの、お金と、扱いやすさを別にしての話だけど」
「そう、それと行儀、それを忘れちゃだめよ」
「その通り。どんな時でも、行儀のいい男が欲しいわ」

洗濯室へ行くと、スターリングがゆっくりと回転している洗濯機に寄りかかり、漂白剤、石けん、軟化剤のにおいの中で眠っていた。スターリングは心理学を専攻し、マップは法律だが、それでもマップには、洗濯機のリズムが巨大な鼓動であり、水が旋回する音とともに胎児が聞く音、人間の最後の平和な記憶であるのを知っていた。