ボーヴォワール『ごくつぶし』

クラリス 死ぬときまで待たなければ、生きることが許されないの?

フランソワ きついだけでなく、無益です。どうして鐘楼が要るのですか?
ジャック あの男たちが労苦を引き受けるのは、眼を未来に向けているからこそなのだ。現在に生きるように仕向けない方がいい。

ジャン・ピエール 苦しみとか喜びをどうやって計るのですか。涙の重さと血の一滴の重さを比較することが出来ますか。僕は明日、ヴォーセルの人々が自由になり、繁栄することを望むのです。だが、今日、飢えて死んだ子供たちには、誰も生命を返してやることが出来ない。僕は手を清らかにしておきたい。
ルイ われわれの手の色とか、心の平和はどうでもいい。われわれの反乱以前は、人々は、悲惨と苦痛の中に、獣のように這い廻っていた。今後、生命が意味を持つためには、いくつかの生命を犠牲にしたところで大したことはない。
ジャン・ピエール 他人の涙と血を、血で償うのは嫌です。

クラリス 待つ!まだ待つの?
カトリーヌ 待つのは易しい筈よ。そこでじっとしてさえすればいい。生きるのを我慢して、時間が経つままにしてね。

カトリーヌ あなたが才能を浪費するのを、いらいらせずに見ていられますか?頭脳も、心臓も、それに二本の手があって、何もしなくないのですか?
ジャン・ピエール それより僕はこの手を切り、この心臓を抉りとりたい。僕は生き、呼吸している。それだけでもう罪人のように感じる。ああ、この世から姿を消すことが出来たら?
カトリーヌ そんなことは出来ません。
ジャン・ピエール せめて、この地上でのさばらないように心がけることは出来る。

ジャン・ピエール あなたは僕の口を手で押さえて、僕を見詰めた、僕にとって懐かしい、沈黙の素顔で……
クラリス 黙って。
ジャン・ピエール 僕たちの沈黙を忘れたのか?沈黙より誓いのおしゃべりの方が好きなのか?

ルイ この町は、われわれの作ったものであると同じくらいお前の作ったものだ。そして、お前はわれわれと同じように町の勝利を望んでいる。町のためならば、お前に生命まで要求することが出来る。
カトリーヌ 要求などはしていません。私に死刑を宣告したのです。なぜわれわれをそんない憎むのか。必要なら、われわれだって死を受け入れるつもりだ。
カトリーヌ 私には、受け入れる自由などあるでしょうか?私が拒絶したら、どうなさるつもり?〔沈黙〕私にはもう何を望むことも許されていません。私は女でした。今では無用なごくつぶしにすぎません。あなた方は私の生命以上のものを奪ってしまいました。私には憎しみしか残っていません。

ルイ これでわれわれが死刑執行人になったことは事実だ。確かに槍の穂先、死の炎は、われわれのこれからの運命である恐怖と同様、生易しいものではあるまい。だが、無実で死ぬか、有罪で生きねばならないというからには、罪を選ぼう。なぜなら、われわれは生を選ぶからだ。
カトリーヌ あなた方は自分たちのために生を選び、私たちのために死を選んだのです。

カトリーヌ むだだわ。もう遅すぎる。昨日、あなたの町の運命を、手の中に握るべきだったのよ。昨日なら、評議会の人たちも、あなたの言うことを聞いたでしょう。彼らの犯罪をやめさせることもできたでしょう。ところが、あなたは手を汚さないことを望んだ。
ジャン・ピエール 沈黙が僕を人殺しにさせるなんて、どうして見抜けたでしょうか?
カトリーヌ 人殺しで死刑執行人よ。あなたが沈黙した以上、あなたはどんな運命も受けいれたことになる。

ジャン・ピエール 僕が生きていて、君が死んでしまうあんんて、耐えられない。僕は君を愛している、クラリス
クラリス 昨日は、愛なんて無意味だと言ったじゃないの。
ジャン・ピエール 昨日だったか?ずっと前だったような気がする!
クラリス 昨日よ。あなたは私を愛していなかった。
ジャン・ピエール 生きるつもりがなかたtので、愛するつもりもなかったのだ。この地上が不純のように思われ、ここで自分を汚したくなかったのだ、なんと愚かな思い上がりか!
クラリス 今日ならもっと純粋に見えるっていうの?
ジャン・ピエール 僕たちはこの大地のものなのだ。今でははっきり見える。僕は自分を世界から切り放すつもりだたt。そして、地上で人間としての務めを避けた。この以上で僕は卑怯者だった。沈黙することで君を死刑にした。僕はこの地上で君を愛している。僕を愛してくれ。
クラリス 地上で、どうやって愛し合えるというの?
ジャン・ピエール 一緒に戦うのだ。

ルイ われわれのうちに喜びよ、あふれろ!われわれは自由のために戦うのだ。自由こそが、われわれの自由な犠牲によって、勝利を占めるのだ。生きるとも、死ぬとも、われわれは勝利者だ。