プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』

こうして、無為に悩まされたオネーギンは、空しい心をもてあましながら、他人の知恵をわがものにしようという殊勝な心がけから、ふたたび机にむかった。書棚に本をずらりとならべ、かたっぱしから読んではみたものの、やっぱり無駄だった。そこにあるのは退屈と欺瞞とたわごとばかりで、良心もなければ、意味もないことばかりだった。どの本をとってみても、さまざまな因襲がちらつき、昔の本は古くさく、新刊物は昔の幻を追うものばかりだ。ついにオネーギンは書物も女のように見捨ててしまい、その埃だらけの本ともども書棚の上に、琥珀(タフタ)織りの喪布をかけてしまった。

私は狂おしい恋のおののきを哀れにも味わっただけなのだ。その恋に火のような詩のリズムを結びあわせた人こそしあわせである。その人こそペトラルカの顰みにならって、聖なる詩の恍惚をいやがうえにも味わい、胸の悩みをしずめて、栄誉まで手に入れることができるのだ。だが、この私ときたら恋をしたとたん、愚かにも唖となって言葉を失ってしまうのだ。
しかし、恋が過ぎ去ると、詩の神(ミューズ)があらわれて、曇った知性もからりと澄みわたってしまう。私はふたたび自由になって、心を魅惑する韻律と感情と思想の結合を探し求めるようになる。そして、私は心軽やかに筆を走らせ、書きかけの詩のかたわらに、われを忘れて、女お顔や足のいたずら書きをすることもない。ひとたび火の消えてしまった灰はふたたび燃えあがることもなく、私はなおも憂いにかられてはいるが、早くも涙のしずくは乾き、あれほど私の心を揺さぶった嵐の名残りも、またたく間に静まっていくのだ。そんなおときにこそ私は二十五章からなる長い叙事詩に筆を染めるのだ。

さあ、私の新しい作品よ、ネヴァ河畔の市へ飛んでいくがいい。そして、私のために曲解や雑音や罵倒といった栄光の貢物をもらってくるがいい!

彼は青春のごくはじめから、嵐のような放埓と気まぐれな情熱の犠牲となっていた。浮世の習いに甘やかされて育った彼は、あらゆるものに熱中と幻滅を繰りかえしながら、ついにはその欲望にもこの世の成功にも疲れはて、ざわめきのなかでも静けさのなかでもひたすら魂の永遠の愁訴に耳を傾けて、あくびを笑でまぎらしてきたのだ。こうして人生のこよなき花を空しく散らしながら、八年という長い年月を葬ってしまったのである。

涙もろい詩人諸君よ、きみたちは愛する人のまえで自作の詩を読んで聞かせたことがあるだろうか?世間ではそれにまさる贈り物はないと言っている。たしかに、自分の詩と恋の対象である悩ましい美女にむかって、その夢想を読んで聞かせることのできるつつましい恋人こそ果報者である!いや、たとえ相手がひょっとしてまったくべつな思いに気をとられていたにしても、彼はやっぱり果報者である……

彼は愛されていた……少なくとも、彼自身はそう考えて、しあわせだった。人を信じて疑わぬ者こそ幸いである。宿にたどりついた旅人のように、あるいはもっと優雅な比喩をもちいるならば、春の野花に吸いよる胡蝶のように、冷ややかな理性をよそに、心ゆくまで逸楽にふける者こそ幸いである。それにひきかえ、あらゆることを予見し、少しも眼をまわすことなく、すべてのおこないとすべての言葉を、自己流に解釈してこれを憎悪し、その心を経験によって鍛えあげ、忘我の境に浸ることのできぬ者こそみじめである!

いかなる年齢も恋には克てぬものだが、若くて汚れを知らぬ心には、さながら春の嵐が野末を渡るように、その恋のうずきこそすばらしい恵みをもたらすものだ。情熱の雨に濡れると、若い心はいききとよみがえって成熟し、その力づよい生命力が美しい花を咲かせ、甘い果実を結ばせるからだ。だが、人生の転機を迎えているわれわれのような不毛の晩年にあっては、いたずらに情熱の亡骸だけが痛ましい。それはうそ寒い秋の嵐が草葉を泥沼に変え、あたりの森を丸坊主にするようなものだ。

なにがあなたをあたくしの足もとにひざまづかせたのです?なんとうつまらぬことをなさるのです!あなたほどの心と知性の持ち主が、こんなつまらぬ感情の奴隷におなりになるとは?