半村良『楽園伝説』

「サラリーマンは現代の奴隷だ。幹部社員といえどもその例外ではない。笞は昇給と人事異動だ。昔の奴隷は笞で追わなければ石切場へ行かなかった。鎖がなければすぐに逃げた。しかし今の奴隷はなさけない。笞のかわりに自分で目覚時計をかける。満員電車にとび乗って、朝飯もろくに食わずに社へ駆けつける。いつでも休めるのに、皆勤賞など大したものではないのに、少しぐらいの風邪は薬でおさえつけて出勤する。それは家族のためだ家族のためだと思い込みたいが、妻や子がサラリーマンの味方だとは限らない。だらしがないだの無理解だのと言って、自分たちは奴隷と無縁の人間であるような顔をしている。事実、女と学生は自由人だ。奴隷じゃない」

「彼女は熱心なあまり、みずから企業の求める人身御供になってしまった」
「自分からなったのですか」
「そうだよ。極東銀行のある危機を救うために服を脱いだのだ」
「…………」
「あそこの専務は、そのとき泣いたそうだ。しかし、非情な社会だ。手っ取り早く危機を回避する手段として、沢田ユリは企業そのものに記憶されてしまった。彼女は、二度、三度と同じことをさせられた。するとそのうちに、危機ということの解釈が変化してしまった。こちらから積極的にうって出ることも、危機ということになったのだ。侵略のための戦争でも、国民にとっては国難という感じ方になるのと同じだ。同時に、かつては自分をいけにえにと望んだ聖女が、うす汚い売春婦のようになった」

「今だって、こうして自分の時間を持っているさ」
「こんな店で潰す時間は、言ってみれば排便時間に等しい……」
マスターはずばりと言い放った。
「ひどいことを言いやがる」
「少なくともお客様の前で言う言葉じゃありませんな」
マスターは居直ったように言った。

「敵というのは、味方になりそこねた連中のことをいう」
梶岡はそう言って笑った。
「それはあなたが強いからだ。弱い者には違う言葉だ」
「どういう……」
「自分を相手にしてくれない者をそう言いますよ。まず女がそうだ。かまってくれない男は悪い男」
梶岡はたのしそうに声をあげて笑った。