ロバート・A・ハインライン『夏への扉』

公正な賭では、胴元の側につねに見越破損高が見てあるのが普通だ。保険業というものは合法化された賭博なのだ。

看護婦も、あまり変わっていなかった。なかなか可愛い顔をして、教育部隊の下士官といったしっかり者らしい態度。蘭の香りのするショート・カットの髪に小意気な白の帽子を載せ、おなじく白の制服をまとっている。ただその制服の様子が変わっていた。つまり、一九七〇年頃とちがったところが肌を隠し、ちがったところが肌を出しているのだ。まあ、いずれにせよ、女の服というものは、つねにこうしたものなのだが。

ぼくの親爺がよくいっていた。法律が複雑になればなるほど、悪党どものつけいる隙も多くなるのだと。親爺はこうもいった。賢い人間は、いつでも荷物を捨てる用意をしておくべきだ、と。だが、これとてぼくの慰めにはならない。"賢人"と呼ばれるのは結構だが、そのためにいったい、なんど荷物を諦めればいいというのだ!

ドウテイ氏には強そうなことをいったものの、内心、ぼくはひどく弱っていた。ズボンのポケットに、一週間ぶんの食費が入っているとはいえ、心細いかぎりであった。
だが、陽光は温かく、ウィンシャー滑走道路の微かな唸りは心地よかった。ぼくはまだ若く(少なくとも生理的には)二本の丈夫な手と頭脳がある。口笛で流行歌(三十年前の)を吹きながら、ぼくはタイムズ紙の求人欄をひらいた。ぼくは"技術者――熟練者を求む"という項目に目を通したい衝動に抵抗して"未熟練者"のページを繰った。
求人は皆無に近かった。

なぜそんなと、理由を訊かれても答えようはない。自分の仕事は、自分にはわかるのだ。美術批評家は、筆さばきの具合ひとつから、あるいは光線のあてかたから、構図のとりかたから、絵具の選択からでさえ、これはルーベンスであるとか、レムブラントであるとかいったような見わけがつく。技術家の仕事もおなじことで、ある意味では芸術だ。一つの技術的な問題を解くにも、それぞれの流儀と方法がある。技術家は、絵描きとおなじように、その流儀の選びかたで、自分の仕事にはっきりと署名するのだ。

「つまんないのね、あなた。あたしは飲んでもいいでしょ」いいながら、ベルはもう酒を注いでいた。ジンのストレート、孤独な女のお定まりの友だ。彼女は口へ持ってゆく前に、プラスチック製の薬壜を取りあげて、中からカプセルを二つ掌に載せた。
「ひとついかが?」
カプセルから取りだした中身は、ユーホリオンだった。一種の興奮剤だ。副作用がなく習慣性がないことになっていたが、意見は賛否まちまちだ。モルヒネもバルビツル塩酸に類似の刺激があるのである。「ぼくは結構。そんなものを飲まないでも充分幸福だよ」

ぼくは考えようとした。頭がずきんずきんと痛んだ。ぼくはかつて共同で事業をした、そしてものの見事に騙された。が――なんどひとに騙されようとも、なんど痛い目をみようとも、結局は人間を信用しなければなにもできないではないか。全く人間を信用しないでなにかやるとすれば、山の中の洞窟にでも住んで眠るときにも片目をあけていなければならなくなる。いずれにしろ、絶対安全な方法などというものはないのだ。ただ生きていることそのこと自体、生命の危険につねにさらされていることではないか。そして最後には、例外ない死が待っているのだ。
「たのむ、ジョン。なぜ信用するのか、きみがいちばんよく知ってるじゃないか。きみはぼくを信用してくれた。だからぼくもきみを信用するんだ。いま、ぼくにはきみの助けが必要になった。きみは助けてくれるだろう?」