エラスムス『痴愚神礼讃』

まったく、まじめなことを軽々しく論じるぐらい、ばかげたことはありませんが、つまらぬことをつまらぬことだとはとても思えないように論じることぐらい、愉快なことはありますまい。

他人に噛みつくのがけしからぬとお咎めになるかたにはこうお答えしましょう、文筆家たるものは常に、大胆不敵が嵩じて憤怒に身をまかせるようなことをしでかさないかぎり、一般の人間を俎上にのせて、罰せられることなくからかう自由を認められてきた、と。

たぶん皆さんは、修辞学者の慣例に従って、私がいかなる者であるかという定義をくだしてから、いろいろにそれを分類するものと思っていらっしゃるのでしょう。いいえ、そんなことはいたしませんよ。あらゆるところに、はるか遠くから君臨して地上のあらゆるものから讃迎をささげられている神様の力は、やれどのくらいだとか、やれこれこれだとかいうこよは穏当ではないのです。第一、私の影や姿を定義によって描いたりする必要が、なぜあるのでしょうか?私はちゃんと皆さんの前にこうやっているのですし、皆さんは皆さんの目で私を眺めていらっしゃるのですからね。

私がなにものであるかということは、ひとも言うとおり、額にも顔全体にも現れていますし、もしだれかが私をミネルヴァの女神なり知恵の女神なりに見立てようとしたら、一言も口をきかずに、一目で、その夢が醒めるようにしてあげましょう。目つきというものは、魂のいちばん嘘偽りのない鏡ですからね。<<>>
生命そのものにもまして、楽しく貴重なものは他にあるでしょうか?ところで、この私のおかげをこうむらずに、いったいだれのおかげで生命は始まりますか?人類を産みだしてこれを殖やすのは、「権勢並びない父を持った」パラス女神の槍でもなければ、「雲を呼び集める」ユピテル大神の盾でもありません。そうでしょう?頭をちょっと動かすだけでオリュンポス山をことごとく震撼せしめる、神々の父祖であり人類の主君である大神にしても、なんどもなんどもやられたことですが、「子どもを作ろう」と思われるたびごとに、その三叉の雷火も、思いのままに八百万の神々に怖気をふるわせるティタンのようなお顔もお預けにして、喜劇役者のような情けない仮面をおかぶりにならねばならなくなるのですからね。

もし、賢人たちがしているように、結婚というものの不便不都合をあらかじめ計算できていたら、いったいだれが、結婚などという桎梏に首を突っ込むようなことをするものか、おたずねしたいですね。また、子どもを産むのにどれくらい危険があるものか、またそれを育てあげるのにどんなに苦労するものかをとくと考えられたなら、いったいどこのご婦人が殿御の許へ行くでしょう?皆さんの生命は結婚のおかげでできたのでしょうが、結婚する気になれるのも、私の侍女の「軽躁無思慮」のおかげなのです。

ストア学派の人々の申すところによりますと、賢さとは理知に導かれることで、痴呆とは変転する情念に従ってゆくことになります。ところが、人間の生活をぴんからきりまでもの悲しく陰鬱なものでないようにするために、ユピテル大神は人間たちに、理知よりもはるかに多くの情念を授けてくださいました。で、いったいどのくらいの割合でしょうかしら?四十匁対一貫目の割合ですね。そのうえに、大神は、この理知を、頭の狭苦しい片隅へ押しこんでしまい、体全体を情念の混乱に委ねてしまったのです。かてて加えて、孤立無援な理知にたいしてふたりの暴君の暴力を立ち向かわせました。つまり、心臓という生命の泉もろともに胸の城砦を占拠している「怒り」と、その領土を下腹までひろびろと広げている「淫欲」とです。こういう連合した二つの強敵を相手にしたら、理知にどれほどの力がありましょう?人間の普通一般にやっていることが、十分にそれを示してくれます。理知は、人の道の掟を守れと、声がしゃがれるまで叫んでいるのがせきのやま。この王様は家来からは、いっそうひどい悪口雑言を浴びせられ、追いたてられ、はては、矢弾も尽きはてて、口をつぐみ、降参してしまうのです。

戦争こそは、ありとあらゆる輝かしい武勲の舞台であり源ではないでしょうか?ところで、結局は敵味方双方とも得よりも損をすることになるのに、なにがなんだかわからない動機から、こんな争いごとをやり始める以上に阿呆なことがるでしょうか?

運命の女神は、思慮が浅くて向こう見ずな人々、すぐさま「運命の骰子は投げられた」などと好んで言う人々を愛してくれます。ところが知恵は、人間を臆病にします。ですから、どこへ行ってみましても、賢人たちは、貧困、飢餓、空しい夢幻のなかにおりまして、世のなかからは忘れられ、なんの栄誉も与えられず、同情も受けずに暮らしております。それとは逆に、阿呆瘋癲は、ありあまるほどの金持となり、国家の舵を握り、要するにあらゆる方面で栄えていきます。