ヘミングウェイ『誰がために鐘は鳴る』

よく考えてみると、すべて優秀なやつは陽気だ。陽気なほうが、ずっといいし、それに、なんだか頼もしいところがあるように思わせる。まだ生きているうちから不朽の名声でも残しているみたいだ。しかし、そんな人間は、もう数多くは残っていないようだ。いや、陽気な連中は、もうほとんど残っていない。残っているのは、わずかばかりの、おそろしくいまいましいやつらばかりだ。こういうふうに考えてゆくと、おまえが残っても、そのどっちつかずのところだろう。もうそんな考えはふりすてたほうがいいぞ、わが旧弊家どの、古き同志よ。おまえはいま橋梁爆破屋なのだからな。思索家じゃないんだ。ところで、おれは腹ぺこなんだ。彼は、そんなことを考えていた。パブロのやつ、うまいものを食っているといいのだが。

「おまえさん、何してるんだい、このなまけものの、酔っぱらいの、女好きの、とんでもないチョンガーの、ジプシーの、助平根性の、いんちき野郎め!」

「きみは猟が好きかね?」
「好きですともさ。何をさしおいてもな。わしらの村では、みんなして猟をしますだよ。おまえさんは猟は好かねえだかね?」
「好かないな」と、ロバート・ジョーダンは言った。「動物を殺すのは好きでないよ」
「わしは、そのあべこべでさ」と老人が言った。「わしはまた人間を殺すのがきらいでね」
「だれだって、頭がどうかしていないかぎり、そんなことはきらいだよ」と、ロバート・ジョーダンは言った。「だが、やむをえないときには、そうは考えないだけの話さ。大義名分のためという場合にはね」

「おあがんなさい」と、娘が言った。「お酒を飲むと、あたしが、もっと美しく見えるかもしれないわ。あたしのために、うんと飲まなくてはだめよ。そしたら、あたしが美人に見えてよ」
「そんなら、やめたほうがいいようだ」と、ロバート・ジョーダンは言った。「きみは、もう十分美しい。いや、美しい以上なのだから」
「台詞を知ってるね」と、女房が言った。「おまえさん、口がうまいよ。美しい以上というと、どう見えるかね?」
「知的だ」と、ロバート・ジョーダンは、自信のない口調で言った。マリアが、くすくす笑った。女房は、情けなさそうに頭をふった。「台詞の出だしは、ばかによかったけれど、終わりは、なんともはやいただけないね、ドン・ロベルト」
「ドン・ロベルトというのは、やめてほしいな」
「冗談だよ。ここでは冗談いうときにはドン・パブロっていうんだよ。冗談にセニョリータ・マリアというようにね」
「ぼくは、そんなふうな冗談は好かない」と、ロバート・ジョーダンは言った。「こういう戦争をしているさいには、まじめにぼくを同志と呼ぶべきだよ。冗談なんぞ言ってふざけているうちに腐敗がはじまるのだ」
「おまえさんは、政治については、ずいぶん宗教的だね」と、女房がからかった。「おまえさんは冗談口なんかきかないのかい?」
「いや、冗談は大いに好きだが、人を呼びかけるのに、ふざけていうようなことはしないよ。それは旗じるしみたいなものだからね」
「旗にだって、あたしは冗談を言おうと思えばいえるよ。どんな旗にだってね」と、女房が笑った。「あたしときたら、だれにもひけをとらないくらい、なんでも冗談にしてしまうのさ。黄色と金色の昔の旗を、あたしたちは膿と血と呼んでたもんだよ。これに紫色を加えた共和国の旗は、血と膿と過マンガン酢塩と呼ぶしね。それが冗談というものさ」
「このひとは共産主義者なのよ」と、マリアが言った。「共産主義者は、みんなとてもまじめなひとたちだわ」
「きみも共産主義者かい?」
「いいえ、あたしは反ファシストよ」
「ずっと前から?」
ファシズムというものがわかってからよ」

マリアは目に涙をうかべて彼を見た。「あたしの父は」と彼女は言った。「武器を手に入れることができなかったのよ。ほんとによかったわね、あんたのお父さまは。運がよかったのね、自分を殺す武器を手に入れることができて」

「たとえ思いだせたにしても、思いだす気にゃならねえだよ」とフェルナンドは言った。「噂なんぞに耳を傾けて、気にかけたりするのは、人間の尊厳を落とすことだでな」

マリアが腕をつかむのを感じた。彼女も空を見あげていた。彼は言った。「あいつら、なんに見えるかね?」
「わからないけれど」と彼女は言った。「死――そんな気がするわ」
「あたしには飛行機みたいに見えるよ」とパブロの女房が言った。

美しく晴れわたった日で、もう日がのぼって、かなり暑かった。ロバート・ジョーダンは、女房の大きな日やけした顔を眺めた。ひどくあいだのはなれた、気のよさそうな目だ。四角な、ごつい顔つきで、深いしわがあり、みにくいとはいっても、気持ちのいいみにくさだ。陽気なひとみをしている。だが、くちびるを動かさぬときには、なにか悲しそうな顔である。

「あたしは、すこしも臆病者じゃないよ。だけど、あたしには、朝早くだと、いろんなことが、とてもはっきりとわかるんだよ。現在ぴんぴん生きていると思っているひとが、このつぎの日曜日には、お天道さまが拝めなくなる。そんな連中が、たくさんいると思うんだよ」
「今日は何曜日かね?」
「日曜日だよ」
「なんだ」とロバート・ジョーダンは言った。「つぎの日曜日だなんて、ずいぶんさきの話じゃないか。水曜日のお天道さまが見られれば十分だよ。おれは、きみのそんなふうなものの言いかたはきらいだね」
「だれだって、だれか話し相手がほしいものなんだよ」と女房は言った。「以前には、宗教だとか、そんなふうなばかげたものがあったけどね。いまは、ざっくばらんに話せる相手が、どうしてもいなければならないんだよ。いくら勇気があっても、人間ってものは孤独なものだからね」
「おれたちは孤独じゃない。みんないっしょだ」
「あの飛行機というやつを見ると、いろんな気持ちにさせられるのさ」と女房は言った。「ああいう機械にあっちゃ、あたしたちは、どうにもならないからね」
「そんなこと言ったって、やつをたたき落とすことだってできるんだよ」
「いいかい」女房は言った。「あたし、白状するけど、じつは悲しいんだよ。だからといって、あたしの決心がにぶったなどと思われちゃ心外だけどね。あたしの決心には変わりはないんだから」
「悲しみなんてものは、日があがるにつれて消えちまうよ。霧みたいなものさ」

「あたしは、ずいぶんあの男を、さっきの話で傷つけちまったよ。あの男を殺せというなら殺しもするさ。ののしれというなら、ののしりもする。だけど、傷つけるのだけは、いやだよ」

「だって、おまえさんはマリアにほれてるじゃないか」
「うん、急速に、しかも大いにね」
「あたしもさ。あたしも、とてもあの娘が好きなんだよ。そう、すっかり好きになったよ」
「おれもだ」とロバート・ジョーダンは言った。自分の声がかすれるのがわかった。「おれもだ、ほんとうだ」そのようにいうことが彼にはうれしかった。さらに同じことを、きわめて格調の正しいスペイン語で言った。「ぼくはマリアがとても好きなのだ」

「あたしは、おまえが野蛮だったときのほうが好きだったよ」と女房は言った。「人間のなかで一ばんきたないのは酔っぱらいさ。泥棒は、盗みをしないでいるときは、まるで別人のようだよ。強盗は自分の家じゃ商売しない。人殺しだって、家へ帰れば手を洗うことができる。だが、酔っぱらいだけは、いやなにおいをさせて、ベッドのなかでもどしたり、そのうえ、からだの器官をアルコールで溶かしちまうんだ」
「おまえは女だからわからねえだ」とパブロは平然として言った。「おれは、酒さえ飲んでれば、おれの殺した人間のことさえ考えなければ、しあわせでいられるだ。あいつらのことだけが、おれの心を悲しみでいっぱいにするのよ」彼は陰うつに頭をふった。

「ぼくは前線のほうがいいと思うな」とロバート・ジョーダンは言った。「前線へ近づくにしたがって、いい人間が多くなる」
ファシスト戦線の後方は、どうだね?」
「ぼくは非常に好きだ。あっちには、いい連中がいる」
「なるほど、そうすると、おなじように敵も、われわれの戦線の後方に、やつらにとっていい連中がいるわけだな。われわれは、それらの連中を見つけだして銃殺する。やつたも、われわれの連中を見つけだして銃殺するんだ。きみが、やつらの領内にいるときには、いかに多くの人間が、われわれのほうへも送られているかを、つねに考えていなければいかんな」

ある人間を愛することにかけて、けっして自分をいつわるな。愛するということ、これこそ、たいていの人間にはめぐまれぬ幸運んあおだぞ。おまえも、これまで一度もめぐまれなかった。いまやっとめぐまれたのだ。マリアとともに持ちえたもの、それが、わずか今日一日と明日の一部しかつづかぬものであろうと、ながい一生のあいだつづくものであろうと、それは人間の身の上に起こりうる、もっとも重要な出来事であることに変わりはにのだ。それを自分が持たぬがゆえに、そんなものは存在しないという人間は、いつの世のなかにも絶えないだろう。しかし、はっきりいうぞ、愛というものは、ほんとうにあるし、おまえはそれを持っているのだ。たとえ、おまえが明日死のうと、それゆえにおまえは幸運な男なのだ。死が近いことなんぞにおびえるな、と彼は自分に言った。

「きみに会うまで、ぼくは、なにも要求したことがないし、また、ほしいものもなかったことを、きみは知っているかしら?ただ運動のことと、この戦争に勝つことのほか、なにも考えたことがなかった。まったくぼくは自分の希望について純粋だった。いままでたくさん働いてきたし、そして、いまはきみを愛しているし」いま彼は完全に一切のありうべからざることを抱きしめながら語っているのであった。「ぼくは、ぼくたちが戦いまもってきたすべてのものを愛するように、きみを愛している。ぼくは自由と尊厳と、すべての人が働く権利、飢えない権利を愛したように、きみを愛している。ぼくは、きみを愛している。ぼくたちが防衛したマドリードを愛するように、なくなったすべての同志を愛するように。じつに、たくさんの同志が死んだ。じつに、じつに、たくさん。どのくらいだか、きみには考えられないほどだ。しかしぼくは、せかいじゅうの、もっともぼくが愛するものを愛するように、きみを愛しているし、それ以上にきみを愛している。じつに愛しているんだよ、兎さん。とても口で言えないくらいだ。しかし、これだけいまいうのは、すこしはそれをきみに知ってもらいたいからだ。ぼくは妻をもったことはないが、いまでは妻としてきみがいる。ぼくは幸福だよ」

だが、おまえには、家もなければ中庭も――そうだ、家がないんだから中庭なんぞありゃしない。おまえには、明日戦に行く兄弟がひとりあるだけで、ほかには何もない。風は、いまはほとんどないし、お天道さまもいやしねえ。ポケットには手榴弾が四つあるが、これは投げつけるときにしか役にたたねえ。背なかに騎兵銃をしょってはいるが、こいつも弾丸を他人にぶっ放してやるときしか役にたたねえ。人にやる手紙も一通もっている。あとは大地にくれてやる糞を腹いっぱいもっているだけだ。彼は闇のなかで苦笑した。おまえの持っているものは、みんな他にやるものばかりじゃねえか。おまえは哲学上まれにみる現象で、そして不幸な男だよ。彼はそう考えて、また苦笑した。

彼が憤怒を誇張すればするほど、そして侮辱と軽蔑の範囲が広くなり不当になればなるほど、自分もその言葉が信じられなくなってきて、憤怒も、しだいにうすらいできた。もし、そのとおりなら、なんのために、おまえはここにいるのだ?いまのは嘘だし、おまえもそれを知っている。善い人間たちのほうを見ろ。すぐれた連中のほうを見ろ。彼は不当な考えにたえていることができなかった。残虐を憎むのとおなじように彼は不公正を憎んだ。彼の心を盲目にする憤怒のなかに横たわっているうち、だんだんその怒りも消えてゆき、まっ赤な、まっ黒な、盲目的な、殺人的な怒りは跡かたもなくなって、彼の心はいま、愛してもいない女と性的な交わりをしたあとの男の気分のように、静かな空虚な落ちつきと鋭い冷徹な観察とをとりもどした。(そしておまえは、かわいそうな兎さん)と彼はマリアの上にかがみこんで言った。マリアは眠りながら微笑し、彼のほうへ身をすりよせた。(すこしまえおれはおまえが、何か言ったら、なぐりつけたかもしれない。男というものは、怒ると、なんという野獣になるのだろう。)

連中のいうのを聞いていると、いかにも美しく、りっぱに思えたことも何度かあるが、それでも、どうもあの連中は気にくわない。てめえのひきだした、きたねえものを埋めもしねえことが自由というものじゃねえんだぞ。だから動物のなかでは猫がいちばん自由をもっているわけだ。猫は、てめえのきたねえものを埋めるからだ。猫が、いちばんりっぱなアナーキストだ。こいつらも猫からそいつを学ぶといい。それまでは、おれは、やつらを尊敬できねえ。

これは彼がもっている最も大きな稟質であり、戦争を遂行するのに適した才能であった。それは、どんなわるい結果になろうとも、それを無視するのではなく、それを軽蔑できる能力であった。この素質が、他人にたいする過度の責任感とか、まずい計画とか、下手な思いつきを実行せざるをえないというようなことのために、めちゃめちゃにされていたのだ。というのは、そういう場合には、わるい結果とか失敗とかいうものを無視することができないからである。それは自己に危害が加わる可能性などというものではなかった。そんなものは無視できる。彼は自分自身とるに足らぬ人間であることを知っているし、死がなんでもないことも知っていた。真実に、彼が知っている何ものにも劣らず真実に、それを知っていた。しかも、このわずか数日間に、彼は、もうひとりの人間と結びついたとき、自分自身が、なんでもないどころか、じつに大切なものでありうることを学んだのである。しかし、心のなかでは、これが例外であることを知っていた。その例外が、おれたちにはあったのだ。その点では、おれは、じつに幸運だった。おそらくあれは、おれにめぐまれた恩恵なのだろう。おれは、そんなものをさがし求めていたわけではないのだから。あれは奪われたり、うしなわれたりするものではないのだ。しかし、それも過ぎたことだし、今朝で、もう終わりになった。いまやらなければならないものといえば、自分たちの仕事だけなのだ。

ロバート・ジョーダンは立ちあがり、道路をわたって老人のそばにひざまずき、彼が死んでいることをたしかめた。どんな鉄片で、こういうことになったかをたしかめるために、老人のからだをもちあげてみることはしなかった。死んだからには、死んだのだ。それだけの話だ。

「もしも雪さえ降らなかったら――」とピラールが言った。すると、(たとえばこの女が彼を抱きしめでもしたかのように)肉体的な解放感のように、急激にではなく、徐々に、そして理性的に、彼は女の言葉をうけいれ、憎悪を追いだして行った。そうだ、雪だ。雪のしわざだ。雪んあおだ。ほかの連中は雪のしわざだと思っているのだ。ひとたび、ほかの連中が考えるのとおなじように、おまえも考えるなら、そして、ひとたび、おまえがおまえの自我を追いだしてしまえば――戦場では、つねに自我を追放しなければならない。戦場では自我があってはならないのだ。自我は、まさにうしなわるべきものなのだ。