ゴーゴリ『死せる魂』『鼻』『外套』

『死せる魂』

壁中に所せましとかかっているのがまた変りばえしない油絵ばかりで、要するにそこにもあるここにもあるという代物ばかりなのである。違いといえば、一幅の絵に収められた水の精が、恐らくは読者がかつて目にかからざりしほどの大きな乳房を備えていることくらいで。

紳士は帽子を脱ぐと、首に巻いていた毛編みの虹色をした襟巻をはずしたが、これは奥方が背の君のために編み上げて、その上巻き方まで懇切ていねいに指南してくれる類のもので、独り者にだれがそんなことをしてくれるのかは神様だけがごぞんじで、作者などはそういう襟巻を巻いたことはただの一度もないのである。

性格はおしゃべりではなく、どちらかと言えば口数が少ない方で、教養、つまり読書へのしゅしょうな心がけもあるが、本の中味にはあまりこだわらない。恋に落ちた主人公の冒険であろうが、単なる初等科読本だろうが、祈祷書だろうが、何でもまったくのおかまいなしで、どれだから特に気を入れて読むというのでもない。化学の本をあてがわれたら、それだっていやだとは言うまい。つまり、何を読んだとかいうよりも、読んでいるという事自体に満足していたわけで、なるほど文学というものは不思議なもので、それから必ず言葉が出てくるが、時にはそれが何を意味するかさっぱりわからないというような、読書の過程そのものが気に入っていたのである。

そのくすぶったような顔色からして、彼が、硝煙とまでいかなくとも、たばこの煙をかいくぐって生きていることがわかる。

すべての民族は、自己の中にもろもろの力の種を秘め、創造的精神と、明るい個性とその他もろもろの神よりの授かり物に満ち溢れ、それぞれ独自の言葉により独自であり、対象がたとえ何であろうともその表現の中に自己の個性の一部を現す。英国人の言葉は、透徹した賢い人生観を漂わし、フランス人のうつろいやすい言葉は、軽妙なしゃれとなってきらめいて、とび散り、ドイツ人のだれにでも彼にでもわかる訳にいかない、賢げなぎすぎすした言葉は、凝りに凝った言葉を生み出すが、当意即妙のロシア人の言葉ほど、向う見ずで、勇ましく、これほど心の臓から吐き出されるものはなく、これほど生気溌剌たるものはない。

一口で言えば、すべては、荒涼たる美しさ。それは、自然も考えつかず、芸術も考えつかず、両者が手を結んだときにのみ起きうるもので、人間がときにはがむしゃらに積み重ねた苦心作の上を、自然が最後ののみを一振り加えて、ぜい肉をこそぎ落し、作意が露骨にのぞいて見えるような野暮ったいきちょうめんさや、乞食のほころびをなおして、計算された純度と清潔さにより冷ややかに作られるものすべてに不思議な暖かみを与えているのである。

「まったく何とも言いようがない。彼女らの顔を走るものすべて、一本のしわ、一つの片影のことごとくを語り伝えようとしても、何一つ言い表せるものでない。女の目だけでも、一つの果てしない王国みたいなもので、男がそこに一歩足を突っこんだら、もうおしまいだ。手鉤で引っかけたって、そいつを引きずり出すことはできやしない。ためしに、女の目の光だけでも語ろうとしたら、潤んだ目、ビロードのような目、砂糖のような目と、神様もごぞんじないほど色々の目差しがある。きつい目、やさしい目、悩ましい目、とろけたような目、とろけてはいないが、それ以上にべったりと男の心をとらえ、まるで魂をバイオリンの弓みたいにかき鳴らす目もある。いや、何と言ってよいのか言葉もない。人間の色っぽい半分としか言いようがない」

恐怖というものは、ペストよりも伝染力が強く、一瞬の間に人に伝わるものである。だれもがたちまち自分の罪をあったことないこと、根掘り葉掘りほじくり返し始めた。

この慟哭は何のためだろう。それによって、病める魂は傷ましい心の傷を開いて見せたのだろう。自分の中にできかかっていた高尚な自我を確立できなかったこと。若い頃から不成功と闘う経験が乏しかったため、もろもろの障害を乗り越えて自己を高め、強くするという境地に達しえなかったこと。偉大なる感情のゆたかな蓄積も、焼きなましの金属のようにもろくなってしまって、最後の焼き入れを受けられなかったこと。卓越した教師が彼のためにはあまりにも早く亡くなってしまったこと。今はもはや、いつも動揺しているこよによって安定を失っている力と反発力の欠けている弱い意志を叱咤激励してくれるような人がこの世にいないこと。あらゆる階層や、身分や、職業やのロシア人が、いろいろな段階の上に立って到る所で渇望している、あの「前進」という激励の言葉を魂に向かって一喝してくれるような人がいないこと。ロシア魂のこもったふるさとの言葉で、前進というこの全能の言葉をわれわれに向かって語りかけることのできる人はどこにいるのか。われわれの本性のあらゆる力と属性と深さを知りつくしていて、魔法のような手ぶりでわれわれを高い生活に向かわしめることのできる人はだれだろう。気高いロシア人はその人にどんなに涙たれ、愛を捧げることだろう。だが、時代はいたずらに過ぎゆき、未熟な若者たちは恥ずべき怠惰と無分別な行為から抜け出る術を知らず、あの言葉を叫ぶことのできる人はまだ神によって与えられていない。

「労働への愛を持たなければなりません。それがなければ何も成りません。農業経営が好きじゃなければならないんですよ。しかもねえ、そいつは決して退屈なものじゃあないんですよ。田舎の生活は憂鬱だなどと決めこんでいますがね、私なんぞは都会で皆のように一日でもあのくだらなぬクラブだとか飲み屋だとか、劇場なんかで過ごそうものなら退屈で首を吊って死んでしまいますよ。まったく馬鹿の骨頂、与太郎もいいとこですわ。農家のあるじなど退屈どころか、そんな暇もありませんよ。人生のどこを探したって空虚などというものはない。充実しきっています。仕事自体が実に変化に富んでいます。しかも、それはどんな仕事かと言えば、精神を真に高揚せしめるものです。何といったって、農業をしている人間は、自然と四季と共に歩んでいるし、創造というなりわいの参加者であり、その話し相手なのです」

「つまり仕事が私の心を浮き浮きさせてくれるんです。そういったことすべてがちゃんと目的をもって営まれていて、あなたの周りに実りや収益をもたらすものがどんどん増えていくのを見ていたら、それこそどんな心地になるか、ちょっと口じゃ言えませんな。それは金が溜まるためじゃないのです。金はあくまで金に過ぎません。そうじゃなくて、それがみな自分が両手を使って仕事をしているためなのです。自分がすべての原因であり、自分がすべての造物主であり、まるで魔法使のように自分の手から豊穣とお財がこぼれおちてくるのがわかるためです。そんな喜びが他にどこにあるでしょうか」こう語るコンスタンジョグロの買いはいつか上を向き、しわも消え去っていた。まるで戴冠式の日の王様のように、彼は晴々と輝いて、その顔からは光がさしているかのように見えた。「ほんとうに、世界中どこを探したってそんな喜びは見つかりませんよ。それは、人間がまさに神様のまねをしているのです。神は至高の喜びとしてご自分に創造の仕事を課せられた。そして、神は人間が同じように自分の周りの幸福の造物主になれと命じておられるのです。それを退屈な仕事などと言うなんてどうかしていますよ」

こうして悪い先例とならぬよう、万事は隠密に取り決めることに話し合いがついた。それというのも、この取引そのものより、人を同罪にかりたてることの方が恐ろしいからである。

『鼻』

しかし、この世には長続きするものは何一つない。それゆえ喜びも、最初につづく次の瞬間にはもはやさおど生きいきしたものではなく、さらに次の瞬間にはいっそう弱くなり、ちょうど、石を投じて生まれた水面の輪がしまいにはなめらかな水面に融けこんでしまうように、結局は、気づかぬうちに普段の精神状態に融けこんでしまうのである。

『外套』

これらすべてがだれの手に渡ったか、それはわからない。正直に言って、この物語の語り手さえ、そんなことには興味がないのだ。アカーキイ・アカーキエウィチの遺骸は運びだされ、葬られた。そしてまるでそんな人間なぞ一度も存在しなかったかのように、ペテルブルクはアカーキイ・アカーキエウィチなしにとり残された。だれにも庇護されず、だれにとっても大切ではなく、だれにも興味を持たれず、ごくありふれた蝿さえピンでとめて顕微鏡で観察する自然科学者たちの注意さえひかなかった存在――役所での嘲笑をおとなしく堪え忍び、何ら際立った仕事もせぬまま墓穴に去った存在は、こうして消え失せてしまった。