カミュ『異邦人』『転落』

『異邦人』

昼食にゆくため事務所を出る前に、手を洗った。正午の、この瞬間が大好きだ。夕方にはこれほどの悦びを見出さない。みんなが使う回転式の手拭がすっかりしめっているからだ。

勿論、私は深くママンを愛していたが、しかし、それは何ものも意味していない。健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ。

数週間たつと、自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、何時間も何時間も過すことができた。こういう風にして、私が考えれば考えるほど、無視していたり、忘れて了っていたりしたものを、あとからあとから、記憶から引き出して来た。そして、このとき私は、たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所で生きてゆかれる、ということがわかった。そのひとは、退屈しないで済むだけ、たっぷり想い出を貯えているだろう。ある意味では、それは一つの勝利だった。

次席検事が、少なくとも、涙をながすのを見たかと尋ねた。ペレは、見ない、と答えた。すると今度は検事の方で「陪審員の方々はこの点を考慮に入れて戴きたい」と云った。しかし、私の弁護士は憤慨して、ペレに向かい、いかにも大げさな調子で、「このひとが泣かないところを見たのか」と尋ねた。ペレは、見ない、と云った。傍聴人は声を立てて笑った。弁護士は一方の袖をからげながら、断乎たるたる調子で、「これがこの訴訟のすがたなのだ。すべて事実だが、また何一つとして事実でないのだ!」と云った。

もはや、彼の知恵も、善意もつき果てたかのように、そのとき、セレストは、私の方を振り返った。その眼はきらきら輝き、その唇は慄えているように見えた。これ以上何か自分にできることはないか、そう、私に問いかける様子だった。私はと云えば、一言も云わず、何の仕ぐさもしなかったが、このとき生まれてはじめて、一人の男を抱きしめたい、と思った。

真実何かを悔いるということが私には嘗てなかった――そのことを、親しく彼に、ほとんど愛情をこめて説明してみたいと思ったのだが、私はいつでもこれから来るべきものに、例えば今日とか明日とかに、心を奪われていたのだ。

「われわれは彼を咎めることもできないでしょう。彼が手に入れられないものを、彼にそれが欠けているからと云って、われわれが不平を鳴らすことはできない。しかし、この法廷について云うなら、寛容という消極的な徳は、より容易ではないが、より上位にある正義という徳に姿を変えなければならないのです。とりわけ、この男に見出されるような心の空洞が、社会をものみこみかねない一つの深淵となるようなときには」

ほんとに久し振りで、私はママンのことを思った。一つの生涯のおわりに、なぜママンが「許婚」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮は憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人も、何人と雖も、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にして了ったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切が成就され、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。

『転落』

自分の気持を支配する、これは高等動物の特権ですな。

実を云うと、わたしには微妙な表現、一般に、上品な言葉づかいをしたいという弱点があるのです。自分でもいけない弱点だと思っていますが、絹の下着が好きな人は、却って足が汚いと云われますが、必ずしもそうとはかぎりません。ともかく、上品な言葉はポプリンみたいなもので、皮膚病をかくしていることがとても多い。しかし、わたしは自ら慰めているんです。妙な言葉づかいをする連中だって、要するに清潔ではないのだと思ってね。

パリというところはまったくこけおどしの街、四百万人の幻影が住むみごとな舞台装置ですね。え、五百万近くですって、最近の人口調査では?じゃあみんな子供を作ったんですな。たいしてふしぎじゃない。わたしはね、いつもこんな気がしましたよ。わが同郷のパリジャン諸君は、思想と姦通、この二つがむしょうにお好きだとね。いわば無分別に好きなんですよ。

あなたはたぶん実業家でいらっしゃる?え、ほとんど似たようなものですって?みごとなご返事だ!的確でもあるし、われわれは万事につけ、ほとんど似たようなものでしかないんですからな。

夜は、決して橋を渡らないことにしているんです。これはある誓いの結果なんですがね。まあ考えてごらんなさい、誰かが身投げしたとする。採る道は二つに一つ、追いかけて跳び込んで、自殺人を救い出すこと、この寒空で、下手をするとこちらまで死ぬかもしれない!もう一つは、見殺しにすること、しかし、跳び込んで救ってやらなかったことは、しばしば妙に心の疼く原因となるものです。

とにかく、自分は正しい立場にいる、そのことだけで、良心の平和には充分でした。正義への感情、自分に道理があるという満足感、自分自身を尊敬する歓び、こういったものは、人間を奮い立たせ、前進させる狭量なばねですよ。反対に、人間からこうしたものを取除いてごらんなさい、よだれを垂らす狂犬同然です。自分が誤りを犯しているのが堪えられない、たったそれだけの理由で、なんと多くの犯罪が犯されたか!

われわれの感情を呼び醒ますものは死だけなんだと気付いたことがありますか?死に別れたばかりの友人を、われわれはどんなに愛することか、ね、違いますか?口に泥をつめ込まれて、もうしゃべれなくなった先生たちを、われわれはどんなに尊敬することか!そのときになって讃辞が、その先生たちがおそらく一生期待していた讃辞が、極めて自然に口をついて出てくる。でもね、なぜわれわれがいつも死者に対して正当であり、寛大であるか、お分りですか?理由は簡単!死者に対しては、義務がないからですよ。死者はわれわれを解放してくれる、こちらは勝手気ままに時間を使い、一杯飲んだり、可愛らしい妾と会ったりする合間に、つまりひまなときに、讃辞を片付けてしまう。死者がなんかの義務を負わせるとしたら、記憶に対してだけど、こっちの記憶力は悪いときてる。いや、友人のなかでわれわれが愛するのは、死んで間もない死者、傷ましい死者であり、自分の感動であり、つまりは自分自身なんですよ!

《父親に口答えするものではない》ごぞんじですか、この極り文句を?ある意味で、この文句は奇妙だ、愛する者に向かって口答えしないとすれば、この世でいったい誰に対して口答えしますか?別な意味で、この文句はなっとくがいく、誰かが鶴の一声を云わなければならない。でないと、あらゆる理窟に別な理窟が対立して、いつまでたってもきりがないから。ところが反対に、権力というやつは一切をずばりと解決する。

次第に物事がはっきりと見えるようになり、今まで知っていたことも少しは理解できるようになった。それまでは、忘却という驚くべき能力にいつも助けられていた。自分の決めたことをはじめに、なにもかも忘れてしまう。結局、問題なんてなにひとつなかったことになる。戦争、自殺、恋愛、貧困など、周囲から強制されればむろん関心を持つけれど、それもおざなりで、見せ掛けばかり。日常生活で変わった事件があると、ときどきはむきになるようなふりをする。自分の自由がおびやかされる場合はむろん別として、つまりはそれにも無関心だった。どう説明するかな?上滑り、そうだ、わたしの手にかかるとなにもかも上滑りしてしまうのですよ。
しかし、そうとばかりは云い切れない、物忘れが反って立派だったこともありますから。信仰上すべての侮辱を許して、実際に許すことは許すけれども、決してそれを忘れない人がありますね。わたしの性格は侮辱を許すほど優しくはないが、いつもけろりと忘れてしまう。だから、てっきりわたしに憎まれていると思っていた人が、わたしからにこにこのあいさつをされて、呆気にとられる。こういうわたしを寛大だと感心する人もあれば、卑劣だと軽蔑する人もある。しかしこちらの理由はきわめて単純、つまりそいつの名前まで忘れちまっているのだとは、その男は考えもつかない。とすると、無関心や不義理の原因である弱点が、同時に寛大さという長所になる。
だからわたしのその日その日の生活は、ひたすらわたし、わたしの連続でした一日一日を女たちと暮らしたろ、美徳や悪徳と暮らしたり、畜生のように暮らしたりしていても、わたし自身は毎日毎日厳然と居座っている。こんな風に人生の上っ面を、いわば言葉のなかを歩んでいたので、決して現実のなかを歩んでいやしない。読書はすべて好い加減、友情は好い加減、町の見物は好い加減!女関係は好い加減!身振り手振りはあっても、倦怠か放心のせいだけ、だから、たくさんの人間がわたしを追い廻してなにか引掴まえようとしても、なんにもない、こいつは不幸ですね、彼らにとって。なぜならこちらは忘れちまうから。自分自身の思い出っきりなかったんですよ。

くりかえすから習慣となり、まもなく、考えないでも言葉が浮かび、反射的に行動が続くようになる。いつのまにか、欲しくもないのに取るという状態に陥る。いいですか、少なくともある種の人間にとって、欲しくないものは取らないということは、この世で最も難しいことなんです。

ともだちがないことがどうしてわかるかですって?至極簡単ですよ、そんなこと。わたしがそれを悟ったのはあるとき、友人たちに一杯食わせてやれ、まあ云ってやればやつらを懲らしめてやれと思って、自殺を考えたときなんですがね。だが待てよ、どいつを懲らしめるんだ?びっくりするやつはいても、懲らしめられるやつなんぞひとりもいまい。というわけで、わたしには友だちなんぞないとわかったんです。

ごぞんじでしょう、女はどんな弱点だって本気になって咎めはしない。むしろ男の力を挫いて無力にしようとする。だからこそ女は戦士への報いではなく、犯罪者に対する報酬になるわけ。女は犯罪者の港、避難所で、逮捕されるのは大抵女のベッドですからね。地上楽園の最後に残されたものが女じゃないでしょうか?

その頃もうわたしの心を大きく占めていた無関心は、なんの抵抗も受けなくなり、硬化症は拡がってゆきました。もう喜怒哀楽の情がないんです!気分はいつも変わらない、というより、てんで気分がないのです。結核に侵された肺は乾燥することで治癒しますが、同時に少しずつ、その良くなった肺の持ち主を窒息させます。自分が治ったことで静かに死につつあったわたしも、これと同じでした。

われわれはなんびとの無罪も請け合えないのに、万人の有罪であることは確実に断言できる。各人はすべて自分以外の者の罪を証言している、これがわたしの信念だし、ここにわたしの希望があるんです。

ひとりの人間を殺すには、いつだっていくつか理由がある。ところが、人間が生きているのを正当化するのは不可能だ。だから犯罪者には弁護士が付きものなのに、無実にはほんのたまにしか弁護するやつが現れない。

要するに問題は、自由であることを止めて、自分以上のやくざに悔恨の裡に服従することです。われわれ皆が罪人ということになれば、それこそ民主主義だ。ねえ、ひとりで死ななければならないということ、その仕返しをすべきだということは一応別にして、死は孤独だけど、服従は集団的です。他の連中もまたわれわれと同時に一口加わる。これが大切なんですよ。これでやっと万人が集まることになる。だが跪き、頭を垂れてね。