トルストイ『アンナ・カレーニナ』

幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。

その瞬間彼には、何事かあまりに恥ずべき罪跡をふいにあばかれた人におこると同じような現象がおこったのであった。例の失策の暴露後、妻の前に立つときの彼の立場にふさわしい顔をつくることが、彼にはちょっとできなかったのである。侮辱を感じて腹をたてたり、否定したり、弁解したり、許しをこうたり、あるいはむしろ平気な顔をしたりするかわりに――これらは、よしどれでも、彼のじっさいに見せたものよりは、まだしもましだったであろうに――彼の顔はまったく、心にもなく、(「脳神経の反射作用だ」と生理学好きのステパン・アルカジエヴィッチは考えた)まったく心にもなく、急に、もちまえの善良な、したがって愚かしげな微笑でつい笑ってしまったのである。

しかし、解答はなかった、最も錯綜した解きがたいいっさいの問題にたいして生活が与える、あの一般的な解答以外には。その解答はこうである――人は日々の要求にしたがって生きねばならぬ、つまり、忘れてしまわなければならぬ。けれど、睡眠によって忘れることは、少なくとも夜になるまでは望めない。洋酒びんどもがうたったあの音楽のほうへもどっていくことも、もはやできない。してみると、今は、生活の夢によって、すべてを忘れ去らなければならない。

「われわれ田舎にいる者は、自分の手をできるだけ、働くのに便利なようにしようとつとめている。そのためには、つめも切れば、ときには袖もまくりあげる。ところがここでは、みんなの人が、わざとのばせるだけつめをのばし、小皿大の飾りボタンをつけて、手では何ひとつできないようにしている」
ステパン・アルカジエヴィッチは快活に笑った。
「それはつまり、あの男には。荒っぽい仕事が必要でないという証拠さ。あの男には、頭がはたらけばいいのだからね……」
「それはそうだろう。しかし、ぼくにはやはりこっけいだよ。ちょうど今、われわれのしていること――つまりわれわれ田舎者は、すこしも早く仕事にとりかかれるようにと、大急ぎで飯をかっこむのに、ぼくはいまきみと、早く満腹しまいとして、そのために牡蠣などをほじくっている。このことがぼくにおかしいと同じように、おかしいのだ……」
「うん、もちろん、しかりだ」と、ステパン・アルカジエヴィッチはひきとっていった。「けれど、そのなかにこそ、教養の目的もあるんじゃないか――つまり、あらゆるものから快楽を作り出すということが」
「さあ、もしそれが目的であるとしたら、ぼくは野蛮人であるべく願うね」
「だからきみは野蛮人だよ。レーヴィン一家の者はことごとく野蛮人だよ」

世には、何事によらず、自分の幸福な競争者にたいすると、つねに、相手の持っているいっさいの長所には目をつむって、ただ欠点ばかりを見ようとする人と、反対に、何はおいても、その幸福な競争者のうちに、自分にまさった性情を見いだしたく思って、心にはげしい痛みを感じながらも、ただただ長所ばかりをたずね求めようとする人とがある。

コーヒーはうまくわかずに、みんなに飛沫をはねかけてしまった。そして、要するに、一ばんかんじんな役目をはたした。すなわち高価な敷物と、男爵夫人の服とをぬらして、喧騒と哄笑とにきっかけをあたえたのである。

コンスタンチン・レーヴィンは、自然の美については話すことも聞くことも好まなかった。言葉は、彼にとっては、彼が目にしたものからその美を奪うものであった。

「自尊心」とレーヴィンは、兄の言葉にちょっとむっとしていった。「ぼくにはわかりませんね。かりに大学かなんかで、他人は積分計算を理解するのに、おまえだけは理解しないとでもいわれたんなら、自尊心の問題もおこりましょう。だが、この場合では、まず、自分にはこういう仕事に要する一定の才能があるという確信と、それ以上に、この仕事が非常に重大だという信念をえてかかる必要がありますからね」

神は一日を与え、神は力を与えた。そしてその一日も、力も、労働にささげられて、報酬は労働そのもののなかにあったのである。だれのための労働か?労働の結果はどうであるか?そういうことは、的をはずれた無用な考察であらねばならない。
レーヴィンはこれまでにもしばしば、こういう生活に見とれ、こういう生活をいとなんでいる人々にたいして、羨望の情をあじわったものであるが、今日は生まれてはじめて、わけてもイワン・パルメノフとその若い女房との態度を見て受けた印象のおかげで、自分のこれまで生活してきた煩雑な、無為な、人工的な個人的生活を、この労働的で、清浄で、共同的で、美しい生活に変えることも、自分の意志ひとつにあるのだという考えが、はっきりと頭にはいってきた。

「あなたの行為がよしいかなるものであったにせよ、わたしは自分を、われわれが神のみ力によってむすばれたきずなをたちくる権利あるものとは考えません。家庭は、でき心や、気ままや、夫婦のうちひとりの罪によってすらも、破られてよいものではありません。そしてわれわれの生活は、それが以前に進んでいたとおりに、進まなくてはならないのであります」

ウロンスキイの生活は、彼がすべきことすべからざることのすべてをはっきり決定する規則をもっていることによって、とくに幸福であった。これらの規則は、きわめて小範囲の生活を包含するにすぎなかったけれども、そのかわり規則そのものは、疑いのないものだったので、ウロンスキイは決してこの範囲から踏みだすことなく、かつて一分といえども、なさねばならぬことの実行にちゅうちょしたことはなかった。これらの規則は、つぎのことをはっきりと規定していた――カルタのいかさま師には支払わねばならぬが、仕立屋には払うにおよばぬ。男にはうそをついてはならないが、女にはこのかぎりでない。なんぴとも欺いてはならぬ、しかし夫だけはこのかぎりでない。侮辱を許してはならぬが、侮辱することはこのかぎりでないなど。こうした規定は、すべて不合理であり、賞すべきものではありえなかったが、しかしそれは疑いのないものだったので、それを実行しながらウロンスキイは、自分の心に平安を感じ、昂然と頭を高くあげていることのできるのを、感じていた。ただ最近になり、アンナとの関係が原因になって、ウロンスキイは、彼の規則もまた十分にすべての条件を解決しかねることを感じまじめ、しぜん、将来には、もはやそれに処する手引きの糸を見いだしえないような、困難と疑惑とが起こりそうな気がしだしているのだった。

「女――というものは、男の活動にとっての、大なるつまづきの石であるんだ。女と恋をしながら、何かをしようということはむずかしい。ところが、そういうさまたげなしに、女を愛する方法がただひとつある――それは結婚ということだ。ええと、ところで、どうしたらきみに、ぼくの考えてることがうまく伝えられるかなあ」と、たとえ話の好きなセルブホフスコイはいった。「待ちたまえ、待ちたまえ!そうだ、重荷を運びながら両手で何かすることができるのは、ただ重荷を背中へ結びつけたときだけだ――そしてそれが結婚なんだ。ぼくはそれを、結婚してみてはじめて感じた。つまり、急に手が自由になったもんだからね。ところが、結婚しないでこの重荷を引きずっていたひには――手がふさがっていて、何をすることもできやしないさ」

「ぼくはいまだって、死について考えることをやめてはいないよ」とレーヴィンはいった。「じっさい、もう死んでいいときだよ。何もかもつまらんからねえ。ついでにひとつ、きみにぼくの真情を披瀝しようか――そりゃぼくだって、自分の思想や仕事は非常にとうといものだと思っている。しかしだ、まあ、ようくこのことを考えてみたまえ。だいいち、われわれのこの世界にしてからがだ、ひとつの小さな遊星の上に生じた、ひとつの小さな黴にすぎないじゃなきか、そしてわれわれはこの世界に、何か偉大なもの――思想とか事業とかがありうるように考えている。が、そんなものはみんな、砂粒のようなものなんだ」
「おいおい、そんなことはきみ、この世界みたいに古い考えだよ!」
「うん、古いさ。しかしだ、いいかね、はっきりとそれがわかってくると、なんとなく、すべてのことがつまらなくなってくるんだよ。自分は今日明日のうちに死んで、あとに何ひとつ残らないということがわかると、何もかもが非常につまらなくなるんだよ!そりゃぼくにしたって、自分の思想は非常に重大なものだと信じている。が、それが万一実行されたところで、この牝ぐまをひねくるように、けっきょく、つまらないことになるのだ!そこで人は、ただ死ということを考えまいためばかりに、猟や仕事に気をまぎらせながら一生を送っていくのだ」
ステパン・アルカジエヴィッチは、レーヴィンの話を聞きながら、優しくいたわるようなえみをうかべた。
「うむ、もちろんそうさ!つまりきみもぼくのほうへ近よってきたことになるのだ。きみは、ぼくが人生に快楽を求めているといって、さかんに攻撃したものだった。覚えてるだろう?だからさ、なあ道徳家、そうむやみに、いかめしいことばかりいってるもんじゃないんだよ!……」
「いや、しかし、申請にはやはりいいこともあるさ……」とレーヴィンはまごついた。「いや、ぼくにはわからん。ぼくの知ってるのはただ、人はじきに死んでしまうということだけだ」
「なんで、じきなんていうんだい?」
「しかしだ、いいかね、死ということを考えると、人生の魅力は少なくなるが、そのかわり心はずっとおちついてくるよ」

ミハイロフは、すっかり興奮していたにもかかわらず、技巧云々の評言は、痛いほど彼の心をかきむしった。で、彼は腹だたしげにウロンスキイの顔を見て、急に顔をくもらせた。彼はよくこの技巧という言葉を聞いたが、それがどういう意味でいわれているのか、彼にはいっこうに解釈がつかなかった。彼は、この言葉によって人々は、内容とはぜんぜん無関係な、書いたり塗ったりする機械的能力を意味していることを知っていた。彼はまたたびたび、いまの賛辞と同じように、人々は、技巧というものをまるでわるいものをよく書くことのできる能力ででもあるように、内的価値に対立させていることに気がついていた。

タレント(才能)という言葉――それによって彼らは、理性や感情から独立した、生来の、ほとんど肉体的ともいうべき能力を意味したのであり、また、画家によって経験されるすべてのものを言いあらわそうとしたのであるが、その言葉が、とくにしばしば彼らのうちに現われた。というのは、彼らにとってその言葉が、彼らがなんの理解も持っていないくせに、なんとかいってみたいことがらを形容するのに、ぜひ必要だったからである。彼らは、彼に才能のあることを否定するわけにはいかないが、彼の才能は、わがロシアの美術家に共通の不幸である教養のとぼしさのために、十分伸びることができないのだと話し合った。とはいえ、あの子供たちの絵は、彼らの記憶に深く刻みこまれていたので、彼らは、ともすれば話題をそのほうへもっていくのだった。
「なんという美しさだろう!まったくあれは成功している、そしてあの単純さはどうだ!あの男は、あれがどんなにいい作だか、自分でも知っていないのだ!そうだ、あれは人手に渡してはならぬ。ぜひとも買い取ってしまおう」とウロンスキイはいった。

独身時代には、他人の結婚生活を、そのくだらない心づかいや、争いや、嫉妬を見ると、彼は心の中でたださげすむように微笑するだけであった。彼の確信によると、彼の未来の夫婦生活には、そのようなことはけっしてありえなかったばかりでなく、すべての外部的形式までが、あらゆる点において、他人の生活とはぜんぜん異なったものでなければならぬように思われていた。ところが意外にも、彼と妻との生活は、いっこうに特殊な形をとらなかったばかりでなく、かえってすべてが、彼が以前にはあんなにも軽蔑していた、きわめてつまらない些細なことから組み立てられており、そしてそのつまらないことが、今では彼の意志に反して、なみなみならぬ、争いがたい意義をもっているのだった。そのうえレーヴィンは、あらゆるこうした些細なことの整理が、自分が以前に考えていたように。けっして容易なものではなかったことを知った。レーヴィンは、自分は家庭生活についてきわめて正確な観念をもっているように思いこんでいたにもかかわらず、彼もまたすべての男子のように、いつともなく家庭生活を、何ものの障害もありえない、また、こまごました心づかいなどに気をとられるようなことのありえない、愛の享楽としてのみ想像していたのであった。彼の見解によると、彼は自分の仕事にいししみ、その休息を愛の幸福のうちに求むべきであった。彼女は愛せられるもの、ただそれだけでなければならなかった。しかしここでも彼は、すべての男子と同じように、彼女もまた働かねばならぬということを、忘れていたのだった。で、彼は彼女が、この詩のように美しいキティーが、家庭生活の最初の週はおろか最初の日から、テーブルクロースのことや家具のこと、来客用の寝具のこと、盆のこと、料理人のこと、食事のことその他について考えたり、心にとめたり、気をくばったりすることができたのに、少なからず驚かされた。ふたりがまだ婚約の間柄だたっときにも、彼は、彼女が外国行きに反対して、わたしはそれよりほかに大事なことのあるのを知っていますといったような、また、わたしは恋以外のことも考えることができますといったような態度で、田舎行きを主張した、決着のよさに驚かされたものであった。そのことは、当時、彼をおもしろからず思わせたが、今もやはり、彼女のこまごました心づかいや心配が、幾度となく彼をおもしろからず思わせるのだった。が、彼は、それが彼女としてはやむをえないことであるのを知った。そして、彼女を愛する心から、なぜという理由はわからず、また、そうした心づかいをわらってはいたれども、なおそれを嘆美しないではいられなかった。

彼は、彼女が自分に近いものであるばかりでなく、今ではもう、どこまでが彼女でどこからが自分なのか、わからないのだということを理解した。彼はこのことを、自分がこの瞬間に経験した、ふたつにわかれるということの苦しい気持によって、理解したのだった。彼も初めは腹をたてた、が、すぐ、同じ瞬間に、自分は彼女によって腹をたてさせられるという法はないこと、彼女は自分自身なのだということを感じた。つまり、彼が最初の瞬間に感じたのは、ふいに背後からひどくぶたれた男が、いまいましさと仕返しをしたい気持とで、相手を見つけようとしてふりむきはしたものの、それは何かのはずみに、自分で自分をうったのであって、だれに腹をたてることもない、じっと堪えて、痛みをみぎらすほかはないのだということがわかったときにあじわうような感じであった。

不満を感じている人にとって、その不満の原因にたいしてだれか他人を、わけても自分に一ばん近い者を責めないようにするのは、至難なわざである。で、レーヴィンの頭にも、漠然とながらつぎのような考えがうかんでた。彼女そのものに罪はない(どういう点からも、彼女に罪のあろうはずはない)が、しかし彼女の教育が、あまりにうわっつらな、くだらない教育がいけないのである。《あのチャールスキイのばか者――おれはちゃんと知ってるが、彼女はあの男に、あのへんな態度をやめさせたいと思ったのだが、できなかったのだ》――《そうだ、家庭にたいする趣味以外(それは彼女も持っている)、自分の化粧やイギリス刺繍にたいする趣味以外、彼女にはまじめな趣味というものがないのだ。おれの仕事にも、農業のことにも、百姓たちにも、かなり上手である音楽にも、読書にも、いっこう趣味をもっていない。彼女は何もしない、それでいてすっかり満足している》レーヴィンは心のなかでそれを非難したが、まだ彼には、彼女が将来の活動時代――同時に、夫の妻となり、一家の主婦となり、やがて子どもを手がけたり、養ったり、教育したりしなければならなくなる時分には、必ず来るはずの活動時代のために準備をしているのだということを、わかっていなかったのである。彼はまた、彼女は本能的にそれを知って、その恐ろしい労苦にたいして準備しながら、時分がいま楽しい気持で将来の巣をいとなむかたわら享楽している、のんきさと愛の幸福時代の瞬間にたいして、自分を責めるようなことをしないでいるだけだということに、思いいたらなかったのである。

病人はなお同じ状態をたもっていた。いまや彼を見た人はだれしも、旅館のボーイでも、その主人でも、滞在客たちでも、医者でも、マリヤ・ニコラエヴナでも、レーヴィンでも、キティーでも、みな彼の死を願う気持を経験した。ただひとり病人だけが、こうした感じをあらわさなかったばかりか、かえって、医者を呼んでくれないといって腹をたてたり、服薬をつづけたり、生について話したりしていた。そしてアヘン注射が、そのたえまない苦痛を一時忘れさせる瞬間だけ、まれに彼は、だれの心にあるよりも強く彼の心にあった声を、夢うつつのうちに口にするのだった。――「ああ早くかたがついてくれたらな!」とか、「いったい、いつになったらこれはおしまいになるのだ!」とか。

人間のなれえない環境というものはないもので、ことに、自分の周囲がみな同じような生活をしているのを見た場合には、なおさらそうである。レーヴィンは、その日自分がすごしたような環境のなかで安らかに眠りにつくことができようなどとは、三月まえには信じることもできなかったにちがいない。目的も何もない無意味な生活、おまけに収入以上の生活を送りながら、酒びたりになり(彼はクラブでやったことに、これ以外の名称をあたえることはできなかった)、かつて妻が恋したことのある男とでたらめな友情を結んだり、さらに、堕落した女とよりほか呼びようのない女を訪問するなどという、いっそうのでたらめをやったあとで、さらにまたその女に心をひかれて、妻に嘆きをかけたりしたあとで――こうした状況のなかで、自分が安らかに眠ることができようなどとは。しかし彼は、疲労と、不眠の一夜と、飲んだ酒とのおかげで、ぐっすりと、安らかな眠りにつくことができたのである。

彼はベッドの前にひざまずき、妻の手をくちびるに押しあてて、幾度もそれに接吻した。と、その手は、弱弱しい指の動きによって彼の接吻に答えるのだった。が、そのあいだも、一方ベッドのすそのほうでは、リザヴェータ・ペトローヴナの器用な手のなかで、まるで燭台の上の火のように、人間的生物の生命が揺れ動いていた。それは、そのときまではまったく存在しなかたっところの生物である。しかもそれは、それ自身同じ権利、同じ意義をもって、同じように生き、かつ同じように、自身によく似たものを繁殖していくであろう。

と、沈黙のただなかに、母親の問いにたいする疑いない返事として、室内の、むりにおさえつけたような一同の話し声とはまったく違った、ぜんぜん新しい声がおこった。それは、どこからとも知れず現れてきた新しい人間的存在の、勇敢な、あたりかまわぬ、何ものをも顧慮しない叫び声であった。

「尊敬なんてものは、愛があるべきはずの場所にの空虚になったのをかくすために、考えつかれたものですわ……けれどもしあなたが、もうわたしを愛してくださらないのでしたら、はっきりそういってくださるほうが、よくもあれば正直でもありますわ」

「ぼくは、事をはっきりすることが好きだから、それでつい気にかけるのさ」と彼はいった。
「はっきりするとういうことは、形式でなく、愛のなかにあるんですわ」と彼女は、彼の口にする言葉にではなく、その冷ややかにおちついた調子に、ますますいらだちながら、いった。
「なんのためにあなたは、そんなものを、そんなにお望みになるんですの?」
《ああああ!また愛の話だ》と彼は、眉をひそめながら考えた。

愛する兄の瀕死の姿をまえにして、二十歳から三十四歳までのあいだにいつともなく、少年時代・青年時代の信仰と入れかわった、彼のいわゆる新しい信念を通して、初めて生死の問題をのぞいて見たそのときから、彼は死よりもむしろ生を――どこから、なんのために、何がゆえに、いったいそれは何ものであるか、こういう点についていささかの知識ももたない生を、恐れたのであった。有機体、その崩壊、物質の不滅、エネルギー保存の法則、進化――彼の以前の信仰に入れかわったのは、これらの言葉であった。これらの言葉や、その言葉と結びついている観念は、知的目的のためには非常にいいものであったが、生のためには何ものをもあたえるものではなかった。それで、レーヴィンはとつじょとして、暖かい毛皮外套をボイルの着物に着かえた人が、寒い外気のなかに立って初めて、自分が裸同然であること、したがって、自分はどうしても苦しみ死にに死ぬほかないということを、理くつでなく、全生命によってはっきりと痛感するようになる、それと同じ境遇にある自分を感じたのである。

それらの思想は、彼がそれを読んだり、自分で、他の学説、ことに唯物主義的学説にたいする反駁を考えついたりする場合には、きわめて有用なものに思われた。が、彼が問題の解決を読んだり、自分でそれを思いついたりするやいなや、いつも同じことがくりかえされるのであった。霊魂とか、意志とか、自由とか、実体とかいうようなあいまいな言葉の長たらしい定義にしたがって、哲学者なり彼自身なりが、彼のためにこしらえた言葉のわあんいわざと落ちこみさえすれば、彼は、何かがわかってくるような気もした。しかし、こうした思想の人為的経路を忘れて、実生活のただなかから、あたえられた糸をたぐって考えたときに自分を満足させたもののほうへもどって行くやいなや、たいまちこの人為的な殿堂は、トランプで造った家のようにくずれてしまい、人生において理性以上に重大な位置をしめている、あるものとは没交渉に、おきかえられた言葉から創造されたものにすぎないことが明白になるのだった。
あるとき、ショーペンハウエルを読んでいて、彼はそのなかの意志という言葉のかわりに愛という言葉をおきかえてみた。と、この新しい哲学は、彼がそれからはなれなかった二日ばかりのあいだは彼を慰めた。しかしやがて彼が実生活のなかからそれをながめると同時に、それもやはり同じようにくずれてしまって、暖かみのないボイルの着物のようになってしまった。

《われとは何か、なんのためにこの世へ来たのか、それを知らないで生きていくことは不可能である。ところが、おれはソレを知ることができない、したがって生きていくこともできないわけだ》と、レーヴィンは自分にいった。
《無限の時、無限の物質、無限の空間のうちに、水泡にもひとしい有機体が作りだされる。そして水泡はしばらくのあいだ保たれて、やがてぱっとはじけてしまう。その水泡がおれなのだ》
これはいたましい思い違いであったが、しかしこの方面における人間の思索の、数世紀にわたる苦心の生んだ最後にして唯一の結論であった。
それは、人間の思索のほとんどすべての方面にわたる、いっさいの探求を総括する最後の信念であった。また、それは君臨するような信念であり、レーヴィンも、とにかくそれが一ばんわかりよかったので、いつ、どうしてということなしに、いっさいの他の解釈のうちから、それを自分のものにしてしまったのである。
しかし、それはまちがいであったばかりでなく、一種の邪悪な力――邪悪でいまわしい、どうしても屈服してはならない力の、残酷な嘲笑であった。
この力からのがれなければならなかった。そして、その手段はめいめいの手のなかにあった。邪悪な力に従属することをやめればいいのである。そしてその唯一の手段は――死であった。
こうして、幸福な家庭の主人であり、健康な人間であるレーヴィンも、幾度か自殺のせとぎわまで追いこまれ、縊死を恐れてひもの類をかくしたり、銃殺自殺を恐れて銃を持って歩くことを恐れたりするまでになった。
しかしレーヴィンは、銃殺自殺もしなければ、首をくくることもしないで、生活をつづけていたのである。

われとは何か、なんのために生きているのか、これを考えると、レーヴィンはその解答を見いだすことができなくて、絶望におちいるのであったが、これを自問することをやめたときには、あたかも自分が何者であり、なんのために生きているかを知っているもののようであった。なぜなら、彼はしっかりして、確実に活動し、かつ生活していたからである。事実、近ごろは以前にくらべて、彼ははるかにしっかりと、安定した生活をいとなんでいた。

自分のしていることがいいかわるいか、それを彼は知らなかった、しかも、今ではそれを確かめようとしなかったばかりでなく、それについて話したり考えたりすることも、避けていた。
さまざまな批判は彼を疑惑にみちびいて、なすべきことなすべからざることを見わける判断をさまたげた。が、考えないで、ただ生活しているときには、彼は自分の心のうちに、絶対に正しい裁判官の存在を絶えず感じ、そしてその裁判官が、ふたつの可能な行為のうちから、いずれがよくいずれがわるいかを裁定してくれた。で、彼は、まちがったことをした場合には、即座にそれを感じるのだった。

《もし善が原因をもつなら、それはすでに善ではない。もしそれが結果――報酬をもつなら、同じく善とはいえない。してみれば、善は原因結果の連鎖のそとにあるのだ。
《そしておれはそれを知っている。われわれはみんな知っているのだ。
《これ以上に大きな、どんな奇跡がありうるだろうか?
《だが、はたしておれは、すべての解決を発見したのだろうか、はたしておれの苦悶は、今これで終わったのだろうか?》とレーヴィンは、ほこりっぽい街道を歩きながら、暑さも疲労も感じないで、長いあいだの苦悶のゆるみを感じながら、考えた。この感じは、とてもほんとうとは思われないほどに、喜ばしいものであった。

《いや、知恵の傲慢ばかりではない、知恵の愚鈍だ。が、一ばん主なのは、欺瞞、すなわち知恵の欺瞞だ。すなわち知恵のまやかしだ》と彼はくりかえした。
そして彼は、愛する兄を瀕死の床に見舞ったときに、きわめてはっきりと明白にうかんだ死という想念から出発した、最近二年間の自分の思想の全経路を、手短かにわれとわが前にくりかえしてみた。
あらゆる人々のためにも、また彼のためにも、その行くてにはただ、苦悩と、死と、永遠の忘却以外、何ものもないということを、あのとき初めて明らかにさとると、彼は、このまま生きていくことはできない、自分の生活が一種の悪魔のいじわるな嘲笑だと思われないように解釈するか、あるいはずどんと一発、ひと思いに自分をやってしまうかしなければならない――こう深く決心したのだった。
しかし、彼はそのいずれをも決行しないで、生活し、思考し、感覚しつづけ、しかも、そのただなかに結婚さえして、自分の生活の意義について考えない場合には、多くの喜びを経験し、幸福ですらあったのである。
これはいったい何を意味するのだろう?ほかでもない、彼はよく生活したが、わるく思索したことを意味するのである。

彼は、母の乳とともに吸いとった精神的真理によって(それと意識せずに)生活していた。けれども、ものを考える場合には、この真理を認めなかったばかりでなく、つとめてそれを避けるようにしていたのである。
が、いまや彼には、自分が生活をつづけることのできたのは、ただただた自分がはぐくまれた信仰のおかげにほかならないことが明瞭になった。
《もし自分がこの信仰をもたず、自分の必要のためでなく、神のために生きねばならぬということを知らなかったら、おれはどんな人間になっていたろう、どんな生活を送ってきたろう?掠奪したり、うそをついたり、人殺しなんかもしたかもしれない。現在おれの生活の主要な喜びとなっているものが、ひとつもおれのためには存在しなかったかもしれない》そこで、彼はあらんかぎりの想像力を働かせながら、もし自分がんのために生きているのかを知らなかったら、おそらくそうなっていたであろうと思われる、野獣のような人間をえがきだそうとしてみたが、それは成功しなかった。
《おれはおれの疑問にたいする解答を探求した。が、思想は、おれの疑問に解答をあたえることができなかった――それは、疑問とは共通点のないものであった。解答をあたえてくれたのは、生活そのもので、何が善で、何が悪であるかを識別する自分の知識のうちに、それをあたえてくれたのだった。ところが、おれはこの知識を、なにによってえたのでもなく、それはすべての人といっしょにあたえられたのだ。おれがどこからもそれを手にいれることはできなかったからこそ、あたえられたのだ。
《いったい、どこからおれはそれを手にいれたのだろう?おれが隣人を愛さなければならぬ、苦しめてはならないというところまで達したのは、はたして理性によってだったろうか?いや、それは、おれが子供の時分から、よく聞かされたことだ。そしておれは、それがおれの魂のなかにもあったことだったので、喜んで信じたのだ。だが、それを発見したのは何ものだろう?理性ではない。理性は、生存のための闘争と、自己の欲望の満足をさまたげるいっさいのものを絞殺してしまえと要求する法則を発見したにすぎない。これが理性の結論なのだ。他を愛するということは、理性の発見しうるところではなかった。なぜなら、それは不合理なのだから》

《この新しい感情は、おれが空想したように、急におれを変えたり、幸福にしたり、啓発したりもしてくれなかった――ちょうど、自分の子供にたいする感情と同じように。ふいの驚異といったものもべつにおこらなかった。これが信仰か、信仰でないか、なにがんんだか、おれは知らない、しかし、とにかくこの感情は、苦しみといっしょに、いつのまにかおれの魂へはいりこんできて、そこにどっかりと根をおろしてしまったのだ。
《これからおれはやっぱり、御者のイワンに腹をたてたり、議論したり、場所がらも考えないで自分の思想を口にしたりするだろう。依然として、おれの魂の聖の聖なるものと他人の魂とのあいだには――妻の魂とのあいだにさえ、障壁は築かれるだろう。そしてやはり、自分の恐怖のために妻を叱ったり、それを後悔したりするだろう。またおれは、なんのために祈るのか理性ではわからないままに、祈りつづけることだろう。――しかし、いまやおれの生活は、おれの全生活は、これからおれの身におこりうるいっさいのことを超越して、その生活の一分一分が、単に今までのようには無意味でないどころか、自分が自分の生活にあたえうる疑いもない善の意味をもっているのだ!》