遠藤周作『イエスの生涯』

監視員たちはイエスを扇動者とする証拠は得られなかったが、そのかわり幻滅した群衆の顔と少なからず動揺しはじめた弟子団をこの日、見ることができた。彼らは当日の情況をただちにエルサレム衆議会に上告したろうし、今後の対策を協議したことであろう。長い間の経験で群衆の心理をよく知っている彼等には、この山上の説教の日は悦ばしい一日だった。なぜなら群衆は自分たちの熱狂的な期待が裏切られると、その量だけ、幻滅と共に憎しみを相手に抱くようになるからだ。監視員たちはうつろいやすい民衆の心理をよく知っていたのである。
だがイエスもまた、民衆のこの心理をよく見ぬいておられた。この半年の間、人々からとり囲まれ、村から村、町から町で悦びの声に迎えられた時から、彼はいつの日か、これら人間たちが自分を棄てることを予感されていたからである。
愛の神、神の愛――それを語るのはやさしい。しかしそれを現実に証することは最も困難なことである。なぜなら「愛」は多くの場合、現実には無力だからだ。現実には直接に役にたたぬからだ。現実は神の不在か、神の沈黙か、神の怒りを暗示するだけで、そのどこに「愛」がかくれているのか、われわれを途方に暮れさせるだけだからだ。

さて我々は遂に福音書の中でも最も劇的な第三幕の頁を開けることになった。この第三幕はいわば聖書のクライマックスであり、私ごとき日本の小説家も、今日まで数えきれぬほど読んで飽きることがない。そこに描かれたイエスの受難と死の場面は、文学史上の多くの傑作悲劇をはるかに凌駕していると思わざるをえぬからである。なぜなら悲劇は英雄の受難と死を物語るが、この聖書の第三幕ではたんに英雄ではなかった存在の死を語っているからである。悲劇はそこに聖なる光を導入できぬが、ここには聖なるものの光が突然灰色の暗幕の背後に走るのを感ぜざるをえぬからである。

この眼のおちくぼんだ「年よりは老けてみえる」イエス。彼はみじめであればあるほど、言いようのない魅力をユダに与える。最後までつき従った一握りの弟子たちと同じように彼も自分がイエスを見棄てれば、なぜか生涯、言いようのない辛さ、悔い、寂しさを噛みしめねばならぬことを感じていたのだ。彼はそうした自分の心理と幾度も闘ったであろう。そうしたイエスへの愛着を捨てようとしたであろう。一人の女に幻滅し、彼女と別れようとしても別れられぬ男の心がこのユダの心理に幾分は似ているかもしれぬ。

イエスの生涯 (新潮文庫)

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