カミュ『ペスト』

そこに、毎日の仕事のなかにこそ、確実なものがある。その余のものは、とるに足らぬつながりと衝動に左右されているのであり、そんなものに足をとどめてはいられない。肝要なことは自分の職務をよく果すことだ。

とうとう、彼は自分が恐怖にとりつかれていることを認めた。彼は人のいっぱいはいっているカフェに二度もはいった。彼もコタールと同様に、人間的な温かさに触れたい欲求を感じていたのである。彼はそれを愚劣なことだと思ったが、しかしそのおかげでコタールを訪ねる約束をしていたことを思い出した。

コタールは、彼の住んでいる界隈の大きな食料品屋が、うんと高い値で売るつもりで食料品をストックしていて、その男を病院に連れていくために迎えのものが行ったとき、寝台の下から缶詰が発見されたという話をした。「そのまま病院で死にましたがね。ペストってやつは、勘定なんか払っちゃくれませんや」。コタールはそんなふうに今度の疫病に関する真偽とりどりの話題をうんともっていた。たとえば、中央のほうで、ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、おれはペストにかかったとわめきながらその女を抱きしめた、というようなうわさが伝わっていた。
「さあ、いよいよってわけですな」と、そういうことを肯定するには似合わないにこやかな調子で、コタールは注釈を加えた。「われわれはみんな気違いになっちまいますよ、それこそ間違いなしに」

それからの話は、グランにいわせれば、きわめて単純なものであった。世間誰でもそういうものなのである。――結婚する。まだ多少は愛したりもできる。そして働く。働いて働いて、そのあげく愛することも忘れてしまうのである。ジャーヌもまた働いていたが、それは例の局長の約束が履行されないためであった。ここのところで、グランのいおうとすることを理解するにはちょっと想像力が必要であった。疲労も手伝って、彼はつい自分に気を許すようになって、ますます黙りがちになり、若い妻の、自分は愛されていると思う気持をささえてやろうとしなかった。働いている男、貧乏、徐々にふさがれていく未来、夕方食卓をとり巻く沈黙――このような世界に、情熱のはいりこむ余地はないのである。たぶん、ジャーヌは苦しんだのだ。それでも彼女は踏みとどまっていた。長い間、自分でも知らずに苦しんでいることがあるものだ。何年か過ぎていった。その後、彼女は行ってしまったのである。もちろん、去っていくときはひとりではなかった。

「パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の根を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう」

「これは、あなたのような人には理解できることでないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が市の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです。、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」
「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利はつねに一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持になったようであった。
「つねにね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「たしかに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとってはたしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーはいった。「再現なく続く敗北です」
タルーはいっときじっと医師の顔を見つめ、それから立ち上がると、重々しい足どりで戸口のほうへ歩きだした。で、リウーもそのあとを追った。彼がすでに追いついていたとき、タルーはじっと足もとを見つめている様子であったが、彼にこういった――
「誰が教えてくれたんです、そういういろんなことを?」
答えは即座に返ってきた――
「貧乏がね」

つまりこの瞬間に、走り去る救急車の横切っていく暗夜のなかで、彼は、やがて医師リウーにもいったように、自分と女房とを隔てる壁にどこか出口を見つけようと全力を傾けていたために、ずっとこの期間中、ある意味で彼女のことを忘れていた、ということに気がついたのであった。しかし、同時にまたこの瞬間に、すべての道がまたもう一度ふさがれてしまってみると、またしても自分の願望の中心に彼女の姿が見出され、しかもそれが実に突如たる苦痛の激発を伴ってやって来たので、彼はいきなりホテルのほうへ駆けだしながらこの無残な傷みを逃れようとしたのであったが、しかしその痛みはどこまでも彼についてきて、彼のこめかみを締めつけたのである。

絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。

「まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度を越えたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです」
リウーはいきなり上体をぐっと伸ばした。彼はそのとき身のうちに感じえたかぎりの力と情熱をこめて、じっとパヌルーの顔を見つめ、そして頭を振った。
「そんなことはありません」と、彼はいった。「僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじえません」

「ありがとう。僕は死ぬ気はないし、戦ってみせるよ。しかし、もし勝負に負けたら、りっぱな終りぎわをしたいと思うんだ」
リウーは身をかがめて、その肩をしめつけた。
「だめだよ」と、彼はいった。「聖者になるには、生きてなきゃ。戦ってくれ」

ペスト (新潮文庫)

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