ボーヴォワール『人間について』

きっと、この世の富は、人間がそれを拒むことが出来るという理由によってのみ、善いものなのでしょう。

革命家は、革命が勝利を得るであろう日、その場にもう自分はいなかろうが、そんなことは頓着しません。

若しもわれわれが自分たちのことを本気で心配するなら、われわれは、《悪い理由》で、つまり、われわれのでない幸福を介して、愛してもらうことも、讃めてもらうことも拒絶するでしょう。かようにして、或る女たちは、化粧ぬきで愛されることを欲し、或る男たちは、匿名で愛されることを欲します。

若しもわたくしが人に讃められるようなちょいとした詩でも作ろうものなら、わたくしは自分の食い方、眠り方に至るまで自分を必要なものだと心から思い込みます。それは、わたくしの自我が散らばっていると同時に一つだからです。この自我は、徹頭徹尾、未開人のマナに似ています。そして、未開人というのは、若し自分の髪の毛ただ一本を押えられても、自分のマナ全部を押えられていると思い込むように、それと同じく、われわれの行為の一つに与えられた賞賛は、われわれの全存在を證據だてているのだと、われわれは信じてしまいます。この理由によって、われわれは自分が名前をつけられることを望むのです。名前というのは、相手の中に魔術的に集合された、わたくしの総存在なのです。然し、実際は、われわれの行為はバラバラに切離されているのです。われわれが他人のために存在するといっても、それは、われわれが自分たちの行為に於て現存している範囲に於てのみで、だから、われわれの分裂の中に於てです。

愛情、恐怖、嘆賞、尊敬などの魔術は、一人の人間を、神にかえることが出来ます。つつましい崇拝者は物体以外の何ものでもありません。そして、彼の偶像は誰の前でも物体ではりません。この至高の純然たる自由性を、人は誰に向って超越することが出来ましょうか?向側には何んにもないのです。