ヘルマン・ヘッセ『内面への道―シッダールタ―』

深く思いめぐらした。深い水をくぐるように、この感じの底まで沈み、原因のひそんでいるところに及んだ。なぜなら、原因を認識することこそ、まさしく思索だと思われたからである。それによってのみ感情は認識となり、失われることなく、本質的となり、その内に蔵するものを放射し始めるのである。

「自分が途上で会う人間はみなゴーヴィンダのようだ。彼らみずから感謝される権利があるのに、感謝の念を抱いている。みんなへりくだり、みんな喜んで友となり、喜んで服従し、あまり考えようとしない。人間は幼児だ」

「いやしくも沙門かバラモンで、だれかがやって来て、自分を引っつかまえ、学問や信仰や深い知恵を奪って行くかも知れないなどと、恐れた人があるでしょうか。そういうものはその人の身についているのであって、その人が与えようと思うものだけを、与えようと思う人にだけ与えるのですから。カマーラも、愛の喜びも、そうなのです。全くそうなのです。カマーラの口は美しく赤いけれど、カマーラの意志にさからって口づけしようとしてごらんなさい。それこそ一滴の甘さだって味わえませんよ。ほんとにたくさんの甘さを与えることのできる口ですけれど!あなたはのみこみのいい方ですから、シッダールタよ、こういうこともおぼえていらっしゃい。愛は、哀願して得ることも、お金で買うことも、贓物としてもらうことも、小路で見つけることもできるでしょうけれど、奪い取ることはできません。その点ではあなたの思いついた方法はまちがっています。いいえ、あなたのように美しい若い方がそんなまちがった手段を取ろうとなさろうとしたら、残念です」

「友よ、言ってみよ、おん身は子どもを教育していないか。子どもをしいていないか。子どもを打っていないか。罰していないか」
「いや、ヴァズデーヴァよ、私はそんなことは一切しない」
「それは知っていた。柔は剛より強く、水は岩より強く、愛は力より強いことを、おん身は知っているがゆえに、おん身は彼をしいず、打たず、命令しないのだ。大いによろしい。おん身をほめよう。だが、おん身が子どもをしいていない、罰していない、と考えるのは、誤りではないか。おん身の愛によって彼を縛っていはしないか。おん身は彼に毎日恥ずかしい思いをさせてはいないか。おん身の親切と忍耐によって彼を一そう苦しめていはしないか。あの高慢で甘やかされた少年をしいて、バナナで命をつなぎ、米でさえもごちそうとしているような、ふたりの老人といっしょに小屋で暮らさせていはしないか。老人たちの考えは彼の考えではあり得ず、老人たちの心は静かで、彼の心とは動き方がちがうのだ。彼はそういうことでしいられ、罰せられているのではないか」

ヴァズデーヴァが言ったことはみな彼自身がすでに考え、承知していたことだった。だが、それは彼に実行できない一つの知識に過ぎなかった。子どもに対する彼の愛は、情愛は、子どもを失う不安は、その知識より強かった。いつか何かあるものに対し、彼はこれほど心を失ったことがあったろうか。いつかだれかある人をこれほど盲目的に、これほど苦しんで、これほど報われずに、しかもこれほど幸福に愛したことがあったろうか。

「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」