尾崎紅葉『金色夜叉』

「僕などは一件大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐らんの。一日が経って行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵えたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きているのだ。若しこの世の中からその楽を取去ったら、世の中は無い!貫一という者も無い!僕はその楽と生死を倶にするのだ。宮さん、可羨いだろう」
宮は忽ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪えかねて打顫ひしが、この心の中を覚られじと思へば、弱る力を励して、
「可羨いわ」
「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげよう」
「何卒」
「ええみんなやってしまえ!」
彼は外套の衣兜より一袋のボンボンを取出して火燵の上に置けば、余力に袋の口は弛みて、紅白の玉は珊々と乱出でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。

貫一は彼の説進むに従いて、漸くその心事の火を観るより明なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄して倦まざるは、畢竟利の一字を蔽はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなお盗なんとするか。我も穢れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或は穢れたる念を起し、或は穢れたる行を為すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ!これ豈穢れたるの最も大なる者ならずや。

「それに就いては小説的の閲歴(ライフ)があるのさ、情夫じゃない、亭主がある、此奴が君、我々の一世紀前に鳴した高利貸(アイス)で、赤樫権三郎と云っては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物と来ているのだ」
「成程!積極と消極と相触れたので爪に火が燈る焔る訳だな」

「何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度御座いませんそうで、招魂社のお祭の時などは、狼煙の人形が能く見えるのでございます。私はこれを見まする度にさよう思いますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜うございましょう。余り近くに見えますので、音や声なんかが致すかと想うようでございます」
「音が聞えたら、彼方此方の音が一所に成って粉雑になって了いましょう」

かくして彼の心に拘う事あれば、自ら念頭を去らさず痛苦をもその間に忘るるを得べく、素より彼は正を知らずして邪を為し、是を喜ばずして非を為すものにあらざれば、己を枉げてこれを行う心苦しさは伏して愧じ、仰ぎて懼れ、天地の間に身を置くところは、わずかにその容るる空間だに猶ほろきを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、はるかに忍ぶの易く、体のまたゆたかなるをさえ感ずるなりけり。

ああ、彼はその初一念を遂げて、外面に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に堕つるを得たりなりけるなり。貪欲界の雲は凝りて歩々に厚く護り、離恨天の雨は随所直にそそぐ、一飛一躍出でては人の肉を啖い、半生半死入りては我と腹を劈く。居る所は陰風常に廻りて白日を見ず、行けども行けども無明の長夜今に到るまで一千四百六十日、逢えども可懐かしき友の面を知らず、交れども嘗て情の蜜より甘きを知らず、花咲けども春日の麗なるを知らず、楽来れども打ち背きて歓ぶを知らず、道あれども履むを知らず、善あれども与するを知らず、福あれども招くを知らず、恵あれども享くるを知らず、空く利欲に耽りて志を喪い、偏に迷執に弄ばれて思を労らす、ああ、彼は終に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目せざるはあらずなりぬ。

心永く疵つきて恋に敗れたる貫一は、殊更に他の成敗に就いて観るを欲せるなり。彼は己の不幸の幾許不幸に、人の幸の幾許幸ならんかを想いて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想いて、又己の契の幾許薄く、人の縁の幾許深かからんことを想いて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交せる情の幾許篤からんかを想いて、又己の恋の障碍の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想いて。嗚呼、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終に如何ならんかを想いて。