キルケゴール『愛について』

同じ言葉があの「祝福され人を育む麦」ともなれば、忽ち又実らぬ木の葉のあでやかさにもなります。それ故に、又あなたは言葉を何も、押えておくべきではありませぬ。あなたの愛の心の感動が、もしそれが真実であったなら、決してかくしておくべきではない、と同じ様に。なぜなら、そういう沈黙を守る事はその人に対し愛をもたぬことにおいて、あなたは不正を犯すことになるからです。恰かも、よこしまに人の財を差し押えて渡さぬ時の様にあなたの友だち、あなたの恋人、あなたの子供、あるいは何人にせよあなたの愛の対象であるものは、あなたの愛の言葉の上の表現を要求する権利があります。もしその愛があなたを真に心の底から感動させているものであるならば。あなたの感動はあなたの所有ではなく、他の人の所有でありますから。その感動の表現はその人の財産であります。なぜならあなたは感動するとき、あなたを感動させた人のものに所属するのであり、あなたは又彼のものであることを意識するでありましょうから。もし、あなたの心が愛でいっぱいだったら、あなたは、押しだまって、唇をかたく結んだりして、嫉妬深く、又は気取って、他の人を悩ませたり、のけものにしたりしてはなりませぬ。いや、あなたは口をひらいて、あなたの心をいっぱいにしている愛について語るがよろしい。あなたの感動を恥ずることがあってはなりませぬ。まして人に、その正しい所有を与えるという廉直さにおいて、何も恥ずべきことはありませぬ。

元より、愛そのものは、目に見る事は出来ませぬ。それ故信ずるより他に仕方ないのであります。

軽薄浮兆の人がまるで(自分自身を)塵埃であるかの様に、刹那刹那の些細ないたずら事のためになげ打って省みぬとき、彼は己れ自らをいかに愛すべきか、という事に対して、甚だ何の理解も有っていないと言うことを証明しているのでありますまいか?憂悶の人が、己れの生命を、いや、己れ自身を逃れないと言うとき、己れ自身を愛するというきびしさと真摯さとが欠けているのではありませぬか?世間や、或いは他の人から信実を破られて裏切られた人が、絶望に身を任せるとき、(その信実の苦難については、ここでは言いませぬ)彼が己れ自らを正しく愛していない、と言う彼自身の罪もその基底にあるのではありませぬか?もし又人が自らを虐使するときこそ、神に仕える法であるとして自己虐待をもっぱらにするとき、己れ自らを正しく愛さぬ事が、正に彼の罪劫そのものを為しているのではありませぬか?ああ、もし人が不遜にも己れ自らの生命に手を下そうとするとき、己れ自らを正しく愛さぬこと、人がみな己れ自らを愛する意味において自己を愛さぬ事が、正しく彼の罪劫となったのではありますまいか?ああ、世間の人はあまりにも多くの裏切りや、不信実について語ります。そして、(神よ人間を矯め直し給わんことを!)まことに遺憾乍らあまりにもそれは真理と言わねばなりませぬ。併しなおその際、私共は忘れてはならぬ事があります。凡そ裏切者の中の最も危険な裏切者は何かといえば、全ての人が己れ自身の内部にかくしている所のものである、と言う事なのです。その裏切りは、人間が利己的に己れを愛する事の中に成立するのか、或いは人が利己的に己れ自身を正しい方法によって愛そうとしない事に在るか。何れにしても、いあkなる状態の下に於ても彼自身は秘密として存在していて、その他の裏切りや不信実等の様に、白日の下に公然と曝される事はありませぬ。それ故にこそ、一層われわれは、「己れ自らのごとく隣人を愛さねばならぬ。即ち己れ自らを愛さねばならぬ」と言うキリストの戒めを以って、自らを警戒することが大切になってくるのではありますまいか?隣人の愛の誡命は、即ち、唯一つの言葉の中に、(「汝自らのごとく」)隣人に対する愛と、己れ自らに対する愛とに就いて説いているのであります。

詩人は全てを謎に於いて理解します。そして謎において詩人は全てを素晴しく、解釈することが出来ます。併し、彼は自己自身を理解しえませぬ。彼自身が謎であることを理解出来ぬのです。

人から愛されたいという念い等は毛頭なく、愛するために誰かを有ちたいと言う!即ち、彼らはその倣岸な自負心を満足するために別種の人間が必要だと言うのです。これは恰も虚栄心が世間などは相手にしない、と言って、矢張世間を必要としている様なものではないでしょうか。――即ち彼等は世間を相手にせぬという事を世間に知ってほしいと言う事なのです。

決して人生の悲痛に対して硬化することあってはなりませぬ。なぜなら、私は「悲嘆すべき」なのでありますから。併し又私は絶望してはなりませぬ。なぜなら、私は悲嘆すべきなのですから。而も又私は悲嘆することを止めてはなりませぬ。なぜなら、私は悲嘆すべきなのでありますから。
愛の場合に於ても同じです。あなたは愛の情に対して硬化してはなりませぬ。なぜなら、あなたは「愛すべき」なのですから。又同じくあなたは愛の心を損ねることあってはなりませぬ。あなたは「愛すべき」なのですから。あなたは愛を守らねばなりませぬ。又あなた自身を守らねばなりませぬ。又あなた自身を擁ることによって愛を擁らねばなりませぬ。

敬虔な詩人だってあるのです。所がこの詩人等は恋人に対する愛や友人に対する友情などを歌っていませぬ。彼は神の栄光のために信と希望とを歌います。又進行と希望との姉妹である愛について歌います。而もこの愛を歌うとき、詩人がその恋を歌うときの様にうたうのではありませぬ。なぜなら隣人への愛は歌うべきではなく行うべきなのでありますから。

人間にとって、永遠の喜びが、喜びとして告知せられるほど、この地上に於ける人間の生命は完全なものではありませぬ。人間自身が、それをもう、取り逃しているのですから。それ故に、人間にとって、永遠の喜びはただ慰めとしてのみ告知せられうるのだ、として仕方ありませぬ。たとえば、人間の眼が、ただ黒く塗られた硝子をとおしてのみ太陽の光りを見る事が出来る様に。――人間は、不滅の喜びを、ただ、慰めとして人間に告知せられる、あの「暗黒」を通じてのみ受取ることができます。

人生の行路を、こそこそと盗み歩いて行くことははるかに容易でもあり、気持よいことでありましょう(上流のものは、気取った引退の中に。下賎のものは、人の目に立たないで済む気安さの中に)まことに、おかしなことではありますがこのしのびやかな登場こそ却って仕事を果すに都合がよいと見えます。なぜならこの方がずっと抵抗を受けないで済むからなのです。
併し、抵抗を回避するということは、骨肉に徹して訊ねてみて、果してそんなに快いものかどうか。臨終の床にのぞんで心に慰まぬものがあるか、どうか?死に臨んでは少しもにげ隠れたり等した覚えはない、むしろ
堂々と堪うべきことを堪えしのんだと言うことが唯一の慰藉ではありませぬか。
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死に臨んでは彼は自ら慰めを以って、自分の魂に次の様に言うことができます、「私は為すべき事を為したのだ。思うほどの仕事を残しえたかどうかは知らぬ。併し、私は人間のために生きたことだけは確信することができる。人が私を嘲笑することによって、私はそれを知ることができる。それこそ、私の自ら慰めとしてしているところのものなのだ。私は自分の秘密を、私と一緒に墓の中に持って行って仕舞おうと思っていない。――私は美しい、静かな愉しい日をもたらせたいために、他の人達と近親であることを否定したのだ。卑賤の人々と上流階級の隠遁した生活を共にするために、上流階級の人達とはかくれた人目に立たぬ貧者の生活を共にするために。」

即ち愛は、たとえば、それ自らに対して悦びを有ってよいのだ等いう、甘やかす様な空想を描く余暇を与えてはなりませぬ。即刻に課題に直面し、次のことを理解せねばなりませぬ。行為にうつす迄のあらゆる一つ一つの刹那も空しく失われた時間であり、単なる時間の浪費以上の損失である事、その他あらゆる他の方法で自分を締めそうとする事も単なる逡巡であり、後退にすぎぬという事であります。

我々はよく人から理解せられぬと愚痴を言います。殊に愛についての誤解の苦い飲み物がまぜ物入りでつくられるときに。いろいろな愛の言葉を経験してみて、結局不幸な愛だと知ります。即ち、愛されてはいるのだが、理解せられてはいないのだと。又愛が一旦誤解されてからの始終というものは、何もかも堪えがたく辛いものになってしまうのであります、等、等。
併し、人間としては未曾有の、不可能の度にまでかく人から誤解せられるということ。キリストが誤解せられた様に、誤解を請けること。而もなお、キリストが左様であった様に、愛することを止めぬとき!
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彼はこの地上に王国を建てようとはしませんでした。使徒らをして、獲ち得た所のものを遺産として継承せしむるために、自分を犠牲にする事もしなかった!いや、人間的に之を見れば、正に狂気沙汰であります。彼は愛する者たちを、己れ自らと同様に不幸にするために自分を犠牲にしました!一体、これをしもなお愛と呼ぶべきでありましょうか?
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而もなお、彼は愛であった。彼は全ての行為は愛の故であり、人間を幸福にもたらそうとした故であった。しかし、何を通してかかる事が可能であろうか?
もとより、神に対する秩序を通じてなのであった。なぜなら、彼は愛であったのだから。そうです。彼は愛であった。彼は自ら、又神と共に知っていたのです。――その愛の知解のために犠牲をもたらさねばならなかったことを。そして、真実を以って使徒らを愛したのである。信実において、人間全体を、自ら救済せられたいと念った全ての人を、愛した、と云うことを。

もし人が、純粋に彼自身の利己愛のためにだけ生きようとしたら、(そんな事は恐らく、あまりありうることではないのだが)世間はそれを利己愛と呼びます。併し、もしその人が利己愛のために、二三人の他の者らと、特に数人の利己的な者らと共謀するとき、世間ではそれを「愛」だ、と言います。

世間が言う愛とは、混沌そのものであります。世の中に出て行こうとする青年に向って、人はかく言います。「人を愛するが好い。人からも愛されるから」と。この言葉は真理であります。殊にもし彼の旅が永遠に向うものであり、完成の国に向って為されるものでありますなら。併し、彼は世間に出て行かねばならないのです。ですから、人はそう言い乍ら、何が愛であるかを学ぶについて神を信頼しなければならぬ、ということにはふれようとしない。

人は権力の力によって、自己を必然にして欠くべからざるものとすることによって、人間性を剥奪してしまう事も出来ます。併し、人は又自己を無力の故に必然にして欠くことのできぬ者となし、それ故匍匐し、乞食の様に額いて他人の壇横な厚かましさを愛と呼ぶことによっても、人間性を剥奪することが出来るのであります。