三島由紀夫『天人五衰』
それは萬人が見て感じる醜さであった。そこらに在り来りの、見ようによっては美しくも見える平凡な顔や、心の美しさが透けて見える醜女などとは比較を絶して、どこからどう眺め変えても醜いとしか云いようのない顔であった。その醜さは一つの天稟で、どんな女もこんな完全に醜くあることはできなかった。
「女にとって、美しく生れすぎた不幸ということ、男の人には決してわかってもらえないと思うんだわ。美しいということが本当に尊敬してもらえず、私を見る男が必ず卑しい気持を起すんだもの。男って獣ね。美しくなかったら、私、もっともっと男性を尊敬していられたと思う。どんな男だって、私を見たとたんに、獣になってしまうんだもの、尊敬しようがないじゃありませんか。女の美しさが、男の一番醜い欲望とじかにつながっている、ということほど、女にとって侮辱はないわ。」
この世界を根こそぎ破壊して、無に帰せしめることは造作もなかった。自分が死ねば確実にそうなるのだ。世間から忘れられた老人でも、死という無上の破壊力をなお持ち合わせていることが、少し得意だったのである。本多はいささかも五衰を怖れていなかった。
――慶子はすべてをたのしんだ。それが彼女の王権であった。
「最醜の機構」……それはいかにも青年らしい、大袈裟な、ロマンチックな、自己劇化の命名だ。それもいい。今では本多は、冷淡に、微笑を以て、それをそう呼ぶことができる。自分の腰痛や肋間神経痛をそう呼ぶのと全くかわりなく。……それにしても目前の少年のように、「最醜の機構」がこんな美しい顔を持っているのは、悪くなかった。
「スポーツマンだというと、莫迦だと人に思われる利得がある。政治には盲目で、先輩には忠実だということぐらい、今の日本で求められている美徳はないのだからね」