プラトン『饗宴』『リュシス』

『饗宴―恋について―』

というのは外国人にとっては彼らの僭主制のゆえに、このことは、それからまた知識の愛求も体育の愛好も醜いことだということになっているのである。それは思うに、支配者たちにとっては被支配者たちのうちに大志や強烈な愛や団結が生じるのは不利益であるが、これらのことを被支配者のうちに作り込む傾向の一番多いのは、他の何ものにもまして恋であるからである。このことをまたこの国の僭主たちも事実によって学んだ。というのはアリストゲイトンの恋とハルモヂオスのゆるぎないものとなった愛とが僭主たちの支配を解体したからである。以上のごとく、愛人たちの意に添うことが醜いことだと定められたところにおいては、それはそれを定めた人々の悪、すなわち支配者たちの貪欲と被支配者たちの卑怯とによって定められているのであるが、しかし立派なことだと一通りに定められたところでは、それを定めた人々の精神の怠惰によるのである。

動物が、歩くものにせよ、飛ぶものにせよ、すべて生殖を欲する時にはなんと奇怪な状態におちいるかを、第一にたがいに交わることについて、第二には生まれたものの養育について、なんとすべてが病気になり、恋狂いにおちいるかを、またこれらのもののためには最も弱きものでさえ最も強きものと戦うのみならず、ために死するのをいとわないことを、またそれらのものを育て上げるために自ら飢えでその身をさいなんだり、その他のあらゆることをなすことを。実際人間ならそれらを勘定ずくからなすと思うことも出来ましょう、しかし動物がそのような恋狂いにおちいるのには、どんな原因があるでしょうか。

『リュシス―友愛について―』

「しかしどうだ。善い者は、善い者であるかぎり、そのかぎりでは自分が自分に対して充分なものであるのではなかろうか」
「はい」
「しかし少なくとも自分にとって充分な者はこの充分さによって何ものも必要としない」
「それはもちろんのことです」
「しかし何かを必要としないなら、それはまた何かを歓迎することもないだろう」
「ええ、たしかにないでしょう」
「しかし歓迎しないなら、それはまた愛しもしないだろう」
「もちろん、しません」
「愛さないなら、少なくともそれは友ではない」
「ない、ように見えます」
「それなら、どうして善い者が善い者に対して友であるなんてことが、そもそもあるものだろうか、善い者は離れていてもたがいに憧憬を持たないし――というのはひとり別にいても自分が自分に対して充分な者であるから――またそばにいてもおたがいを必要としないのに。だとすると、このような人々がおたがいを尊重する手段は何があるかね」
「どんなものもありません」と彼は言った。
「しかしおたがいを尊重しないなら、彼らは少なくとも友であることは出来ないだろう」
「ええ、本当に」

たとえば、乾けるものは湿れるものを、冷たきものは温きものを、辛きものは甘きものを、鋭きものは鈍きものを、空なるものは充満を、充てるものは空虚を望む、またその他のものも同じ道理によってそうである。それは反対なものにとっては反対なものが栄養であるからだ。何故なら同じようなものは同じようなものから何も得ることは出来ないからだ、と言ったのだ。

「今は、リュシスとメネクセノスよ、歳とった男なのに私も、それから君たちも滑稽なものになってしまったね。だってこれらの人々は立ち去りながら、われわれについてこう言うことだろうからね“君たちは――この私をもその君たちのうちに数えてのことだが――おたがいに友であると思っている。しかし友がなんであるかをまだ発見することの出来ないものであることを示したよ”と、ね」