キェルケゴール『死に至る病』

だが絶望はまた別の意味で一層明確に死に至る病である。この病では人は断じて死ぬことはない(人が普通に死ぬと呼んでいる意味では)、――換言すればこの病は肉体的な死をもっては終らないのである。反対に、絶望の苦悩は死ぬことができないというまさにその点に存するのである。

そこからしてまた異教徒が自殺(ここではこれを単に一つの例として引合いに出すだけであるが、実はこれは同時に我々の研究全体に対してより深い関係をもっているのである)というものをきわめて気軽に考えていたいなそれを賞賛さえもした――自殺によって現存在から脱出しようとすることは実は精神にとっては罪の絶頂(神への反逆)であるにもかかわらず――という注目すべき事実が現れてくるのである。異教徒には自己というものの精神的規定が存在しなかった、異教徒が自殺をそういうふうに考えたのはそのためである、窃盗や姦淫等については倫理的に峻厳な判断を下したその同じ異教徒が自殺をそういうふうに考えたのは実にそのためである。異教徒には自殺を考察するための観点――神への関係並に自己――が欠けていた。純粋に異教的に考えるならば、自殺はどうでもいい或る物である、――それは他人には何の関係もないことなのだから各人が自分の気の向くままにやってのけて差支えのないような或る物である。

おそらく人々は年とともに自分のもちあわしていた僅かばかりの熱情・感情・想像力と僅かばかりの内面性を失う、それから人々は無論また自ら(このことは自ら起る)何物かに――すなわち世間人特有の処世術に到達するのである。

負債はそれが弁済されないからといって増大するわけではなく、それはただ古い負債に新しい負債が加わった場合にのみ増大するのである。しかるに罪は人間がそこから脱け出ていない各瞬間ごとに増大してゆく。したがって罪人がただ個々の新しい罪によってのみ罪が増大すると考えているのはこれほど間違ったことはまたとないので、むしろキリスト教的に理解すれば、罪のうちに止まっている状態がそもそも罪の増大であり、新しい罪である。既にこういう格言もある、――罪を犯すのは人間的だが、罪に止まるのは悪魔的だ!

愛の故に一切を捧げようとする衝動を感じたことのなかった人、したがってそのことのなしえなかった人、ああ、これは何と憐れむべき人間であろうか!けれどももしも人間が愛の故のほかならぬ彼のこの献身の故に、もう一人の人すなわち彼の愛人が最大の不幸に陥ることになるかもしれぬということを見出さねばならなかったしたら、どうであろうか?