冬コミに向けて

(承前)とか言ってたら志村先生のサイトとかブログとかツイッターとかみるみる消えていく最中。別名ハイクの方なんかは残ってたのは喜ぶべきか記憶にも無いのかと嘆くべきかとか思ってたらその辺まで軒並み失われていくのを目の当たりにしてさすがに動揺中……おお……手の中から砂が零れ落ちていくように……。まあ今までも何度も復活してきたし、いや最低限作品さえ見られればね……といっても商業仕事はともかく趣味絵なんかは限られそうだけど。ワレワレは垂れる甘露の雫を頂くのみ……とか。
なんか。いろいろ書きたいことあったような、そうでもないような。
とりあえずコミケカタログ、ずっと冊子だったんだけど夏にふと思い当たって初めてROM(も)買ってみて便利だったので冬もROM買うつもりでアニメイト行ったのに並んでるの見たら冊子の方を手にとってしまった。やっぱ基本は冊子かなーと。それプラスROMあればめちゃめちゃ便利なんだけど、特長である情報検索に関してはカタログ用に登録するような人は他の(web)媒体にも発信すると信じて地道にググりますよ。さすがに毎回ダブル買いはキツイからなあ。
実は夏は(コミケ終わってからだったかな?)たまに勉強してみるかと(広義の)男性向で壁に配置されてるサークル全部チェックしてみて、サークルカットと現時点での最新刊の表紙絵(など)をセットでアーカイブしてみたりしたのだった。そういうの意識してやろうって段階でヤバイって自覚もあるけど。
まあでもなんかツマればツマるほど自分に必要なもの見えてくる気もするのでソコ大事にしてやってきたいですよ。冬コミはサークル申し込みしてなくて、考えてみたらそれって94年夏の初申し込み以来かと(言うまでもなく落選は何回もあるけど)ギョッとするけど、もちろん一般では行くので、友達に渡す用にコピー誌でも作るか〜とマンガ描き始めたら楽しくてな〜。
てか、来年5月のコミティア100申し込む!買いに回りたい気持ちも強いのだが。2月も出たかったけどタッチの差だった。でもほんと、イベント合わせとヤッキにならず描いてたら背景とかも楽しくなってきたかんじ。今頃……。まあまたすぐ元戻るかもしんないけど。
うーんやっぱいまいちまとまんねーな。いいか。メモ更新したかってん。

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

序文
芸術家は美しいものを創造する。
芸術に形を与え、その創造主を隠すのが芸術の意図である。
批評家とは、美しいものから受けた印象を、別の手法や新しい素材で伝えることができる者である。
自伝の形をとるのは、批評の最高の形式であり、最低の形式でもある。
美しいものに醜い意味を見いだす者は汚れていて魅力がない。その行為は間違っている。
美しいものに美しい意味を見いだす者には教養があり、彼らには希望がある。
美しいものに美しいという意味しか感じない選ばれた人々なのだ。
倫理的な本というのも倫理に反する本というのもこの世には存在しない。本には、よく書けているか、よく書けていないのかどちらかしかない。
十九世紀が写実主義を嫌悪するのは、キャリバンが鏡の中に自らの顔を見て怒るのと同じである。
十九世紀がロマン主義を嫌悪するのは、キャリバンが鏡の中に自らの顔が映っていないといって怒るのと同じである。
芸術家は人間の倫理生活をテーマにすることはあるが、芸術における倫理は不完全であるな形式を完全に使いこなすことにある。
芸術家はみな、何かを証明しようとは望んでいない。証明されるのは真実だけだ。
芸術家はみな、倫理には共感しない。芸術家が倫理に共感するのはスタイル上のマンネリズムであり、許しがたい。内向的な芸術家などいない。芸術家はすべてを表現できる。芸術家にとっては思考も言葉も芸術の道具である。
芸術家にとっては悪徳も美徳も芸術の素材でしかない。
表現形式においては音楽家の芸術が、感性においては俳優の演技が、すべての芸術の典型である。
すべての芸術は、すなわち表層と象徴でなりたっている。
危険を冒さなければ表層の下に踏み込むことはできない。
危険を冒さなければ象徴を読み取ることはできない。
芸術が映し出すものは、人生ではなく、その観客である。
ある芸術作品に多様な意見がある場合、その作品は新しく、複雑で、活力に満ちている。
批評家たちの意見が一致しない場合、その芸術家は自分自身と調和している。
役立つものを作ったことは、作者が自賛しない限り、許される。役に立たないものを作ったことが許されるのは、その作品が人々を強く感嘆させた場合のみである。
芸術とはみな、きわめて役に立たないものだ。
 オスカー・ワイルド

しかし美は、本当の美というのは知的な表情が浮かんだ瞬間に終わるのだ。知性というのは、それ自体が誇張の手段だから、どんな顔の調和も壊してしまう。人間が腰を下ろして考え始めた途端、顔じゅう鼻だけた、額だけみたいなおそろしいものになる。知的な職業で成功している男の顔を見てみるといい。どれだけ醜怪なものか!

誰かをとても気に入ると、その人の名前は決して誰にも言わないことにしている。その人の一部を譲り渡してしまうみたいだから。僕は秘密を愛するようになった。秘密をもつことだけが、現代の生活を謎めかせ、驚異的なものにしてくれる気がする。どんなにありふれたことも、それを隠してさえいれば、すばらしい喜びになる。

「何かを信じるということにかけては、僕はどんなものでも信じられるよ。それが信じがたいこでありさえすればね」

「笑いで友情が始まるのは、なかなか悪くないね。そして笑いで友情が終わるのはもっといい」

「次に彼がやってきたときには、君は完全に冷淡な態度を取る。とても残念な話だろうが、君はすっかり変わってしまうのだ。君の話はまさに一つのロマンスだ。芸術のロマンスと言ってもいいだろう。そして最悪なのは、どんなロマンスにおいても、当事者は最後には全くロマンティックでなくなるということだ」

「いい影響などというものは存在しないんですよ、グレイさん。影響というのはつねに不道徳なものです。科学的見地から言って不道徳なんだ」
「どういうことです?」
「人に影響を与えるというのは、その相手に自分の魂を与えることだからですよ。相手は自分本来の考えをなくし、本来の情熱で燃え上がらなくなる。その美徳さえ本来のものじゃなくなるんだ。その罪悪も、もし罪悪などというものがあるのならばだが、それさえも借り物になるのだ。彼は他人の音楽のこだまにすぎなくなり、自分のために書かれたのではない役を演じる俳優になる。人生の目的とは自己の開発にある。自分の本質を完全に理解する、そのために我々はここにいるのだ。最近では人々は自分をおそれている。あらゆる義務の中で、もっとも大切な義務を忘れている。自分自身に負っている義務だ。もちろん彼らは慈悲深い。飢えた者に食事を与え、貧しい者に服を恵んでいる。しかし彼ら自身の魂は飢え、裸のままだ。我々の種族は、勇気をなくしてしまったみたいだ。勇気など、本当は最初からなかったのかもしれない。社会への恐怖というのが道徳の基本であり、神への恐怖は宗教の秘密だが――この二つが我々を支配している。しかしそれでもーー」
「しかしそれでも、もしも人間がその人生を完璧に、めいっぱい生きたら、自らがもつあらゆる感情に形を与え、あらゆる考えを表現し、あらゆる夢を現実にしたら――世界はこの上なく新鮮な喜びという刺激を受け、我々は中世趣味とう疾病をすべて忘れ、ギリシア的理想に立ち返ることができるんじゃないかと僕は信じている。古代ギリシアの理想よりも、もっとすばらしく豊かなものかもしれない。しかし現代では、もっとも勇敢な男でさえ、自己をおそれている。未開の民族は自らの身体を切り刻んでいたが、その習慣は自己否認という悲劇的なやり方でいまだに残っていて、我々の生命を傷つけている。我々は自己を拒絶するから罰せられるのだ。我々が衝動を押し殺そうとすると、それはみな心に忍びこみ、我々を毒する。肉体はひとたびその罪を犯してしまえば、もうその罪とは縁をきることができる。行動によって人は浄化されるからだ。あとに残るのは、快楽の記憶と悔恨という贅沢だけだ。誘惑を退けるには、それに身を任せるしかない。抵抗すれば、魂は自らが禁じているものへの渇望に、魂の醜悪な掟が醜悪で背徳的だと決めつけたものへの渇望に、病的にとらわれる。世界中の罪があるのは脳の中だけで、決して他の場所にはない」

「一生に一度しか恋をしない人間こそ浅薄なんだよ。彼らが忠実とか貞節とか呼んでいるものは、習慣による惰性か想像力の欠如だ。感情生活において忠実であるということは、知的生活において堅実であることと同じだ。ーー単なる失敗の告白だよ。忠実!いつかこれも分析してみなければ。この中には所有欲が隠れている。我々には他の者に取られるのをおそれる気持ちがなければ、捨ててしまいたいものがたくさんある」

「ああ、バジルは自分の魅力のすべてを作品に注ぎ込んでしまっているんだ。結果として、彼の現実の生活には、彼の偏見や主義や常識しか残っていない。僕が今まで知り合った芸術家の中で、人間として面白う人物はみな芸術家としてはだめだった。すぐれた芸術家というのは自らの作品の中にしか存在し9ていないから、実生活ではとてもつまらない人間になってしまう。偉大な詩人ほど、真に偉大なる詩人ほど詩的でない生き物もいない。しかし才能のない詩人はおそろしく魅力的だよ。その詩が下手であればあるほど、人間としては輝いてくる。二流の十四行詩集を一冊出したことがあるというだけで、その男はたまらなく魅力的になるんだ。その男は自分には書けはしない詩を生きている。もう一方の詩人たちは、現実に実行する勇気のないことを詩にしているんだ」

「結婚の本当のデメリットは人を利己的でなくすることだ。利己的でない人間はつまらない。個性を欠いているんだよ。それでも結婚がさらに複雑にする要素もある。ある種の自己中心癖は失わず、さらに多くの自己中心癖をつけくわえていくのだ。自分以外の人生も背負うことになる。前よりしっかりせねばならなくなるが、しっかりすることこそ人間が存在する目的なのだ。それにすべての経験に価値があるが、結婚について人が何を言っても、それは一つの経験だ。ドリアン・グレイはこの少女を妻にして、六ヶ月は情熱的に彼女を崇拝し、それから突然他の人に魅了されてほしい、僕はそう思う。彼はすばらしい研究対象になるだろう」
「君はその言葉の一つも本気ではないのだろう、ハリー。自分でもわかっているくせに。ドリアン・グレイの人生がだめになったら、一番悲しむのは君だ。君は自分で見せかけようとしているよりもずっといい人間なのだ」
ヘンリー卿は笑った。「他人のことをよく思おうとするのは、自分のことが心配だからだ。楽観論の根本には完全なる恐怖がある。我々は自分に利益をもたらしてくれそうな美点を持った隣人をつかまえて誉め、自分は寛大だと思っている。自分が引き出し超過になるかもしれないから銀行家をほめるし、自分の懐は狙わないでほしいから追いはぎにいい面を見いだす。今言ったことは、すべて本気で思っている。僕は楽観論をもっともさげすんでいる。だめになった人生について言えば、その人物の成長が止まっている人生ほどだめになっているものはない。自然を傷つけたかったら、それを矯正するだけでいい」

「快楽は自然の試練であり、自然が出す承認のサインだ。楽しいと感じるとき、我々はいいことをしている。しかしいいことをしているときに、いつも楽しいとは限らない」

自分を非難することには贅沢な快感があった。自分を責めているとき、自分を責める権利は他の何者にもないと感じるものである。我々の罪を赦すのは司祭ではなく告解の行為そのものだ。

「過去の唯一の魅力はそれがもう過ぎ去っているということだ」

「君はここに僕を慰めにきてくれたんだろう。それは優しいよ。でも、もう慰められている僕を見て、君は怒ったね。なんて思いやりがあるんだ!」

感覚を偏重することはしばしば、そして十分な理由をもって、非難される。それは人が自分自身よりも強い情熱や感覚を本能的におそれ、また、人よりも系統だってない身体を持った生物にもそうした情熱や感覚があることを知っているからだ。

「女が再婚をするのは、最初の夫がひどく嫌いだったからだ。男が再婚をするのは、最初の妻を熱愛していたからだ。女は運を試し、男は運を賭ける」

「僕は未来のある男と、過去のある女が好きですね。それじゃあ女性上位のパーティーになってしまうと思いますか?」

「我々は発展しています」
「僕には退廃のほうが魅力的だ」
「芸術はどう?」
「芸術とは疾病だ」
「愛は?」
「幻想」
「宗教は?」
「『信頼』のおしゃれな代用品」
「あなたは懐疑派なのね」
「とんでもない!懐疑主義は宗教の始まりだ」
「定義することは限定することだ」
「糸口をくださるかしら」
「糸は切れるものだ。君は迷宮で迷子になってしまうだろう」